2020年、東京オリンピック招致が決まったからなのか、ここのところ、オリンピックとホームレス問題を関連づけた報道やら言論をよく見るようになった。
 まあ、確かに東京の街は変わり続けている。オリンピックがあろうが、なかろうが、常に変わり続けていくのが東京の街の宿命とも言えるのであるが、特に公共事業関連は、オリンピック招致が、その目標としては最適なもので、これから6年間はいたるところで街は変わっていくことであろう。
 もちろん、何もかもがすべて変わると云う訳ではない。東京と云う街は人口も多いが、土地も広い。変わらないものは変わらないまま残っていき、良いコントラスにもなっていくだろうから、古い街並みが好きな人も、そう心配することはないだろう。
 先日、どっかのテレビ局の若き女性から電話があり、「先の東京オリンピックではホームレスの排除は問題になったのであろうか?」なんて云う質問を受けた。まあ、当時は「ホームレス」なんて云う言葉はなく、「浮浪者」と呼ばれていた人々のことを指してであると思うが、当時の社会意識からすれば、きっと問題になることもなかったろうし、また、当時の行政担当者などは多く鬼籍に入られていると思うのでなかなか取材といっても難しいですよと答えておいた。
 後日、その短い特集をたまたま目にすることがあったが、昔の「狩り込み」を報じた新聞記事のようなものを紹介しただけ、またホームレスのインタビューも「不安」を語らせるだけで、何ら具体性はなく、いつのまにか河川敷のソーラーパネルの話に転じて(こちらの話題の方がよほど面白かったが)、マスコミが期待しているような、今回のオリンピックとホームレス排除を示せるものは何もなかった。
 これまでもずっと思っていたが、「ホームレスと排除」と云うのは、きっとマスコミの「期待値」なのであろう。社会的弱者を権力行政が力づくで排除すると云うのは、理由は問わず、絵になる構図(かつての新宿西口地下通路事件のように)で、それを期待するが故に、煽ったりもするのが得意技でもある。
 まあ、それにつられて一部支援団体やら、学者さんやらが小さなことを大きく語るものだから、余計に始末に終えない。
 
 連絡会がこの春から集中的に巡回相談をかけている区内公園がある。近々オリンピック関連の施設が作られるので、工事が始まる場所でもある。
 他の団体は、排除だ、排除だと騒いでいたので、どんな場所で、どんな人々がいる場所だろうかと、恐る恐る入って見ると、何のことはない、普通のホームレスのおっちゃん等が生活している場所であった。工事の件は告知等があり、皆知っているが、だからと言ってオリンピック反対の旗をあげる訳でもなく、どこに移ろうか、これからどうしようかと悩んでいる人々であった。
 支援団体と言うのは、そう言う仲間の悩みに向き合い、そこからの解決策を見いだすのが仕事である。支援団体にとって「テント」を守ることは二次的なもので、まずは「人」を守らなければならないと思うのであるが、そのことを理解しない自称支援者が実に多い。
 今時、行政は法的根拠のない排除は出来ない。出来るとしたら管理権の行使に伴う代執行となるのであるが、それはよほどのことがない限りやりたがらない。何せ代執行に伴う費用は最終的に排除された人々が負うことになっているが、どうみても資産などなく、またその後も補足されないような人々であれば、取りっぱぐれになることは間違いなく、また、訴訟リスクなども抱えてしまうので、そのことを承知でやると云うのは、よほど問題が拗れた場合のみである。その意味で管理者にとってみても非常に有効なのは「ホームレス自立支援法」(時限立法なので、この先無くなってしまったらどうなるかは分からぬが)であり、福祉事務所も含めた総合的な対策の中で適正化が可能となれば、誰しもそれを優先させるだろう。
 東京の大規模公園などで、代執行をせずにテント生活者が劇的に減ったのは、まさに「ホームレス自立支援法」があったからに他ならない。テント生活を維持するのか、それとも格安のアパート生活で再起を図るのかのボールを当事者に投げかけた結果、多くの仲間が後者を選び、双方遺恨を残さず適正化がかなり達成されたのが今の状況である。残念ながらこれは一度限りの選択でしかなく、かつ、都心に近い都立大規模公園などに限定されたものでしかなかったので、テント「ゼロ」には至らなかったし、国管轄の河川敷などは対象にはならなかった。この点では課題は残ったが、それでも「ホームレスの自立」と「公園適正化」を同時に解決の方向へと導いた。
 行政からすれば、公園等の適正化の問題とは、何も排除=代執行をしなくても解決できる問題であり、その法的根拠と実践は既に東京では経験済みなのである。なので、「行政=ホームレスの排除」と考えている人々は、これらの歴史をしっかりと知らず、また検証もしていない、私等の言葉で云えば「外部」の人間でしかない。
 もちろん、力づくの排除ではなく、もっと広い意味での「社会的排除」と云う用語もあるが、これと、巷で言われている排除とは。ちとニュアンスが違う。巷で言われているのは、鬼ではないものを「鬼だ、鬼だ」と騒いでいるだけで、逆に行政の側を「排除」し、敵視しようとしているだけの不毛な論である。

 残ってしまったテント生活の人々の地域移行は、もはや連絡会のお家芸のようになってしまった。何故なら、どこの支援団体もやらないからである。私たちは排除を煽らない。オリンピック関連であろうとなかろうと、工事なり、整備なり、管理者が管理権を行使したい場合は、よほど動機が不純でない限り、現場に赴き、おっちゃん等と話し、議論し、代案も示し、納得した形で今の生活からのステップアップを図る。そのための資源も長い事こんなことをやっているので、微に入り細に入り用意されている。そして、また詳しくは言えないが、これまで、その実績は作られている。
 支援団体と言うのであれば、その人を見て、少なくとも路上から脱却し、その生活が安定するまで支援をしなさいよと、強く思うのである。マスコミもまた同じである。排除があると云うのなら、その生活上の危機を緩和する情報なり、手だてを示しなさいよと、これまた強く思うのである。「あれ、可哀想に」と同情を引く報道をするのであれば、尚更である。
 
 オリンピック招致で景気が良くなるのは、私たちの仕事をしやすくしてくれる。このことは大歓迎である。良い社会情勢の中で、一人でも多くのおっちゃん等が路上から脱却してくれることを望む。オリンピックで云えば、賛成か、反対かではなく、2020年以降の不況を意識した方が、支援団体としてよほど健全である。

 (個別具体的なことは個人情報などもあり、あまり公開できないので、このような活動報告になりますが、ご容赦下さい。)