ホームレス自立支援立法に関する新宿連絡会の見解集

法案をめぐる問題について(2001.6会議レジュメ)

〜レクイエム最終章〜
この秋、ホームレス自立支援法案の早期成立を連絡会の全歴史と総力をもって勝ち取ろう!(2001.6会議レジュメ)

立法化をめぐるホームレス運動の今日を考える(2001.6「シェルタレス」原稿)

法案問題を考える(2001.7「連絡会NEWS NO24」)

 「ホームレス自立支援法」の議論の仕方について(2001.11「連絡会NEWS26」)

「ホームレス自立支援法」の議論の仕方についてその2(2002.1「連絡会NEWS27」)

「ホームレス自立支援法」の議論の仕方についてその3(2002.3「連絡会NEWS28」)


法案をめぐる問題について。
笠井和明

 ホームレス自立支援立法をめぐる様々な議論の中で「法案」中の「自立」概念が不明確である、第六条「ホームレスの自立への努力」は不要である等々の議論が花ひらいている。
 「自立支援」をキーワードにしながら進められて来、そして今日も進められている東京の「路上生活者対策」攻防の中で日々過ごしている私達東京の支援者、当事者にとってみれば、もはや日常用語のようなもので、そんなに違和感がないものなのであるが、「路上生活者対策」との攻防の中にいなかった東京の人びとの間からも同様の意見があがっているようである。
 『「自立」の定義がされていない=恣意的な解釈が可能=選別、排除の根拠となる』というのが、この方達の言い分というか、危惧であるらしい。
 
 さて、「自立」という用語は社会福祉関連の法律にはよく出て来る用語である。かの生活保護法においても冒頭から「自立を助長することを目的とする」と来ている。ただし、「自立」という用語を法案の中で概念規定した法律というのは私の知るところではおそらくないと思う。更に努力規定(義務規定)や国民の協力規定というのも、なにもこのホームレス法案に始まった事ではなく、他法(たとえば障害者基本法にしても、母子寡婦福祉法にしても)においても一般的にこの種の法案には条文化されているものである(生活保護法においては指導の根拠となる60条である)。
 それでは他の法律にも規定されてはいるが決して概念づけられていない「自立」とは何か?日常用語としての「自立」というのは「ひとりだち」という意味である。自立の支援、ないしは助長というのは、その事を他者が支援、援助する事である。その意味では、この定義は立派に社会化され、共有化されている概念であると思うのであるが。
 ホームレス状態の人びとは立派に「自立」しているのだから、こんな法律けしからん、という観点ももちろん出てくるであろう。また、自分の力で「自立」するから支援などもいらん、という人びとも出てくるであろう。もちろん客観的に「自立」している人びと、及び、自力でやる、という人びとは、この法律にはなじまないであろう。しかし、この法にもとづく「自立への努力」をしなかったからと言って何があるかと言えば、この法にもとづく行政支援を受けられないだけの話しであり、罰則も何もない。この法案の基本構図はそうなっている。
 
 もちろん法は「紙切れ」でしかないのだから、恣意的解釈は可能である。が、「自立」という概念がどう恣意的に解釈されると言うのだろうか?おそらく懸念されているのは、法に基づく施策が出そろった段階において、無理やり施設なり、施策になりに「自立しろと、無理やり押し込めよう」とする懸念であると考えるが、それは別にこの法律が施行もされていない今でもその攻防になるのであり、特段、この程度の法(この程度の努力規定)があるか、ないかで大きく左右されるものでもなかろう。問題は、この法によって当事者にとってどれだけ魅力あり実効性のある施策が大幅に作られるか否かであり、その点での議論の方がよほど建設的であると考える。常に問題となるのは、法を執行する行政の姿勢であり、現場攻防である。
 『「自立」の定義がされていない=恣意的な解釈が可能=選別、排除の根拠となる』という論法の危惧は本質的な危惧でしかなく、「自立」の定義がされていないから分断、排除を招くのではなく、法があろうがなかろうが、生活保護が適用されようが、その他の対策があろうがなかろうが、分断、排除を招く危険性は必ずあるのであるから、それをいかに食い止めるのか?という視点として議論すべきである。
 また、現行法体系の中(その悪運用も含めて)実際に機能していない面をカバーするために自立支援のための法律(制度)が別途必要である、という認識に立つならば、分断、排除を招く危険性を排除していくために、国会審議過程を含めて積極的に国会や政党への働きかけをして行くべきだろうし、各地の自治体を牽制しながら、恣意的な解釈をしないよう、その対策姿勢を明らかにさせて行くべきだろう。狼が来るぞ来るぞと、危険を煽るピーター的議論をいつまでしていても仕方がない。
 
 整理するなら、現行法体系の社会保障制度の中(その悪運用も含めて)で実際に機能していない面をカバーするために自立支援のため(雇用確保のため)の法律(制度)が別途必要であるのか否かという議論をしなくてはならない。それぞれの運動団体の行政要求項目として法的な整備問題を入れるのか入れないのか?という問題である。この点で一致されていなければ、議論は拡散するだけである。
 次にその前提にたって、今回の民主党案を評価していく必要がある。その場合の視点は「排除の危険性」を法レベルにおいてどこまで排除できるか、そして実効性のあるものに法レベルにおいてどこまで確定するかである。もちろん、条文の訂正や付帯決議を加えさせるなどを要求する事も可能であろう。こんなの駄目だと言うのであれば、対案を出す、出させる事も考え方としては可能である。

 そして、法案は実際に国会に上程されている。好むと好まざるとにかかわらず、9月以降、審議過程に入る。その現場において、上記の評価が一致したもの同士がいかに連携しながら要求を通し、法の性格を明確化させるのかが、法を求める立場の社会運動にとって真骨頂となる。もちろん、この法案を決定するのは国会であるからして、出来る事と出来ない事はあるし、結論が最初から見えるものでもない。が、運動団体が要求を掲げる以上、それに責任をもち、時間が長くかかろうとも、そのための運動を進めて行く事が必要であろう。
 
 何もかも一致しなければならないという運動論や論議の仕方は、それは理想かも知れないが、おのずから限度がある。それぞれが主体的に考え、評価し、行動する。独善的に見えようがそれがより良いものを生み出す源泉なのではなかろうか。
 
 


〜レクイエム最終章〜
この秋、ホームレス自立支援法案の早期成立を連絡会の全歴史と総力をもって勝ち取ろう!
笠井和明


 新宿連絡会は98年2・7火災以降、その総括として、群れ、集い、共同で住むことの「後」の運動的無責任さを検証し、過渡期としてのダンボール村からの発展の経路の一つの方向性として「仲間が路上から脱し得る対策」を求め続ける事、すなわち、制度政策要求運動を先鋭的に方針化して来た。
 「ダンボールハウスは居住への権利の第一歩であるとかつて規定したことがあるが、ならば、ダンボールハウスを作ることを目的化するのではなく、ダンボールハウスからの発展の経路を権利として勝ち取ることこそ、我々運動体は目指さなくてはならないのではないか。」(「鎮魂の旅路」98.3.14)
 2・7火災直後被災者の人道的な救済を暫定センターへの入所、中央公園への一部移転を果たした後、98年春、「パトロールで結べ」と全都パトロールから全都実を形成し、我々は要求運動のための陣地形成に着手、そして「自立支援センターの早期開設運動」を全都実運動として前進させつつ、東京都との交渉を粘り強く行いながら、その実現を暫定実施の終了を挟みながら実現させて来た。他方において独自で99年「政策提言」で対都行政要求運動の基本的な視点を内外に明らかにし、また、00年、国に対する全国運動の高まりの中、再び独自で00「提言」を発表し、都政レベル以上の全国的、社会的に捉えるべき視点と要求を提起し、ホームレス概念自身を自らに手で転換しながら初の国会闘争に着手して来た。
 また、そのための陣地形成として、新宿駅周辺、中央公園、戸山公園の新宿の広範な仲間を対象にした日常活動と信頼関係の形成、そして全都実池袋から池袋連絡会の形成、三多摩地区における支援活動も当事者の意向を尊重にしながら行なって来た。
 ダンボール村に閉塞していた我々の主体は、そこからの突破を「2.7火災の総括」を合い言葉に多方面において果敢に行ない続けている。戦略なき運動団体としての新宿連絡会(結成以来の)弱点を一定程度克服し続けていると確認ができると思う。

 今、問題となっている法案問題はこの連絡会運動第三期(制度政策要求運動)の流れの渦中にある。
 自立を支援していく法制度化は我々が従来から主張してきた「当事者のニーズに即した路上から脱却可能な選択肢ある社会的支援制度」を法的に明確に作り出す事により、路上から抜け出そうと日々もがき続けている仲間の要望に応える社会環境を作り出せる可能性を大きく前進させるからであり、その現実性を徹底的に追求してきた我々の制度政策要求運動にとって恰好の転機となるものである。もちろんそれが運動の最終的なものになるとは考えられないが、制度の構築は一つの大きな目標であったし、それを実現するということは、新たな質へと運動を導くものである。
 この国の政策(対策)の欠如が野宿状態をダンボール村なりテント村なりを固定化させている事はまぎれもない事実である。固定化される中で自然発生的にそこに「仲間のつながり」が形成される。これに着目することは重要だし、それを発展的にとらえることは重要である。が、運動団体がそれを美化し、意味付与し、それを意識的、無意識的に固定化させる事は決定的に間違いである。これが我々が96.1.24から98.2.7までの「インフォメ前新宿ダンボール村」時代に学んだものである。野宿状態のままでも生きていける条件を仲間のつながりで作り出していこうとするのであるのなら、そこから発展し、野宿状態を脱出できる条件を仲間のつながりを武器にして作りあげない所に運動団体の存在意味が果たしてあろうか?排除に反対し野宿のままでいいという主張は決して正しい意味の居住権でも何でもない。現状の前にただひれ伏すだけの哀れな迎合的運動主体のあり方である。
 我々の96.1.24は少なくとも野宿のままで良いと主張する抵抗運動ではなかった。東京都の一方的なやり方に「話し合い」を求める抵抗であったし、我々の要望をつきつけていく抵抗であった。対策の内容如何ではなく、その前提の力関係を構築していくための抵抗であった。その経緯とその質を問わずに「排除反対」が一人歩きし、無機質な政治スローガンになるのであれば、それは1.24の地平からはまったく無関係である。
 もちろん運動団体が制度政策だけを云々していれば良いという意味ではまったくない。法案一つ取っても、それは制度要求の一つの結論に過ぎないし、仲間の普遍的な要求を要約したものでしかない。その意味では「紙きれ」であり、それに血を通わせる事こそ運動団体の本領である。それは極めて日常的な過程でありそれをどこまでやるかにこそ運動団体の真価は問われる。が、その「コツコツ」した活動はそのための制度や政策があって始めて現実的なものになる。制度要求運動と日常活動との関係はそういう関係ではなかろうか。たとえば生活保護法という制度がなければ、路上で倒れた人々に対する対応はまるで違うものになる。
 運動団体が路上にニーズに真摯に対応するのであれば、制度という問題を真剣に考えない限り、その発展は限られてしまう。「仕事をして自立したい」というニーズに「景気が回復するまで待ちましょう」という対応しかできない運動団体では運動団体としての意味はない。制度を要求し、それをたたかい取り、そして、その果実を当事者に還元していくこと。整理するなれば、これこそが大衆運動団体が行なわなければならない課題である。路上から脱却できるイメージを具体的に提示する事なしに「排除に抗し路上で仲間のつながりを大事に頑張ろう」の意味は単なる傷の嘗め合いにしかならないし、現状維持を強制するだけである。

 現状維持ではない発展の経路の方向性は、かくして作りあげるべきではなかろうか?新宿連絡会は2.7の総括をこの路線として確定し続け、そしてその最終章へと突き進もうとしている。

 他方、立法化をめぐって様々な批判的な観点が各地の運動団体より提起されている。たとえば「山谷から(NO87)」においては『構造改革の名の下、支配層が以後さらにリストラ・合理化を推し進めようととしているなら、野宿者の増加を見据えて、「自立の意志」の有無より「支援」できるかどうかを都合よく判断しようとしているなら、そして今回の立法化がその宣言であるならー。』(P5)という懐疑的な意見(反失実N)、また同P8の「活動委・なすび」の記名文書である『民主党「ホームレス自立支援立法」をめぐる問題』では、『第六条「ホームレスは(略)自らの自立に努めるものとする」という文言は、本当に野宿者のための立法であるなら、必要ないものだ。また、条文の中に「ホームレス」の定義はされているものの、「自立」の定義がされていない。これらは、この法律の恣意的な解釈や立法審議過程の中で、野宿者の選別や排除的な生活を持ってしまう危険性を多分に秘めている』『この立法が平場の当事者運動から練り上げられてきたものではないということである』『「構造改革」における「セーフティ・ネット」の一環としての「立法」は、大量失業・野宿者社会という体制を補完しかねない側面を持っている』などと具体的な批判を展開している。それぞれの筆者の立法化要求運動に対する立場はあまり明確ではないものの、いずれも立法化に「問題あり」という点では一致するようである。
 もっともこの二人の筆者は、私の知る限りにおいては「立法化」問題について運動上の課題であると認識しておらず、それを進めていこうという論議について積極的に噛もうとはしていなかった方々である。『この立法が平場の当事者運動から練り上げられてきたものではないということである』などという客観的な指摘は、立法を平場の当事者運動から練り上げようと努力してきた人々が言うのであればともかく、そうではない立場を取っていた人から語られる言葉ではあるまい。また、『危険性を多分に秘めている』という論議の仕方は、どこまで明記すれば危険性が排除できるのかというレベル問題であるが、たとえ「強制排除をしない」という文言が入ったとしても、「強制排除」という用語の恣意的な解釈如何によっては同じように『危険性を多分に秘めている』のである。危険性を排除する方策は様々必要であると考えるが、危険性があるから法案を作らなくて良い、危険性があるから自立支援センターやシェルターを作らなくても良い、とはならない。生活保護法がまともに運用されていないように、法と言えども、危険性は常に付きまとう。我々はそれを様々な方策で排除して行く事こそが必要である。「この文言が危険だ」という指摘は結構だが、立法化を実現するという立場でのその議論と、危険性を鬼の首を取って煽り立てる立場とは同じ危険性の指摘でも方向性はまるで違う。この筆者はどちらの立場を取っているのかを鮮明にすべきであろう。
 そして、N氏、なすび氏両筆者に共通するのは「立法化は体制補完」であるという観点である。我々は運動主体の個々の政治的立場が体制内改良か反体制かの別は問わない。我々は反体制運動をやっている訳でもなく、政治運動をやっている訳でもない。我々は野宿者の利益に結びつく運動をやっているだけの主体である。たとえ両筆者の観点が一つの側面をもっていたとしても、何故、そのような政治的評論を仲間に提起しなければならないのか?立法化が支配体制を補完するものでしかなかったとしても、それを突破するたたかいは沸き上がらないのか?両筆者の立場は、何か「裏切られる」ことを怖れて傍観しておいた方が良いという、政治的打算が働いた中途半端な立場としか映らない。そんな立場は決して仲間からは理解されないだろう(法が悪用された場合に法要求をしていた者が責任を取れなどという子供じみた論法も「裏切られる」ことを前提にした議論である)。当事者運動のダイナミズムを知らない、組織しようともしない人々は、大御所的な観点からしか法制度や対策を見ようとしない。たとえ「裏切らた」としても、そこから新たなたたかいが生み出される。これも連絡会が学んで来た民衆史である。

 いずれにせよ、これら議論はこれから本格化して来ることであろう。私達は、もちろん建設的な議論の手法を取り、また自らの絶対性を誇示する事なく学ぶべき点は学びながら、これらの議論をオープンに推進させていきながら、多くの同調者を獲得していきたい。
 今後の議論は、法案制定に反対および懐疑的な団体、人々との議論と、他方で地方自治体など「立法案」を(悪い方に)修正しようとする人々、団体との議論という構図になる。もちろん後者の方に対する議論に集中すべきであろうが、まだそこまで行き着いていないのが現状である。
 が、今後、自民党など治安色を強める「対案」、自治体などからのとりわけ排除問題を入れろとする「修正案」などの動向に注意しながら、「民主党案」をベースにした議論をあらゆる場面において攻勢的に行なう必要がある。「民主党案」をベースに法案をより良くしていこうという人々、団体とは建設的な議論をすべきであり、運動団体からする現実可能な範囲での「修正案」や「付帯決議」要求は積極的に行なうべきであろう(治安系の対抗勢力に対する内容的対抗を鮮明にするものとしても)。もちろんそれは審議過程などで反映されるようなやり方をすべきであり、「修正されなければ法案は認めない」などという立場とはまるで違うものであり、様々な議論の妥協点が「民主党案」であることが確認されればよいものである。

 6月国会で決着がつかなかったという事は残り2か月もの期間が明いてしまうという事であり、「法案」に対して様々な利害団体からのリアクションが行なわれるという事でもある。「民主党案」を妥協点としてこの法案を早期に成立させる環境を作りだすためには、我々もこの2か月ボーとしている訳にはいかない。9月の全国大衆国会行動は別途準備しながら、7月8月の時期に積極的に動きまわらなければ、「民主党案」以下での妥結が政治決着してしまう可能性もある。

*6.19院内集会で培った民主党ワーキングチームとの共闘、信頼関係、建設的議論関係を維持しながら、それを土台に議員工作を超党派的に進める事。選挙を利用することも可能だし、個別に当る事も必要である。これまでの議員との関係から資料センターにそのためのプロジェクトチームを作り、本格的に工作に入る事が必要である。

*他方、国会内の取り組みは政治記者の扱いとなる関係上、マスコミなどによる社会的な波及力が現状では乏しい。マスコミへの働きかけは行なうにしても、政治記者の意識がそう簡単に変るとも思わない。と、いう事は独自のキャンペーンが必要である。連絡会独自メディアを全て動員するのはもちろんの事、具体的に仲間が動く行動、新宿区内だけに限定せずに情宣活動などを各地で展開するなどの工夫が必要である。

*そして、実際に野宿をしている仲間の法律であるからして、全都の仲間に正確な情報を伝える作業も必要となってくる。新宿、池袋エリアの仲間以外にも9月行動の呼びかけを軸に法案成立運動への参加を訴えて行くことは重要である。

*また、東京都、新宿区の「法案」問題に対するスタンスも確定させて行く必要がある。すでに大阪市と思われる自治体は「公共施設の管理規定をセットにすべき」という法案に対する意見を取りまとめている。これらの地方自治体の声が中央に集中するという動きに釘をさしておかなければ、自民党の対案などが発生する余地、および悪い方への「修正」の余地を残してしまう。東京都、新宿区もかつて同様の意見を述べており、東京、大坂と同様の意見があがるのは極力避けていきたい。都と新宿区を内容的にも味方につける作業が他方で必要である。

 これらの事をして始めて9月国会闘争が積極的具体的に本番となる事となる。もちろん政治情勢、国会情勢の変化については我々の運動団体の力量では如何ともしようがない。が、どういう情勢になろうとも、我々は我々の立場を明確にし、陣形を強固にしながら、更にやるべき事は全てやり切った上で突撃しない事には立ち向かえる相手ではないだろう。かつての全都実スケジュール闘争のレベルでは通用しないと考えるべきである。もちろん9月国会戦術は限られている。屋内集会、周辺デモ、国会請願デモ、院内集会、議面前集会、議面前情宣、議面前座り込み、委員会および本会議傍聴、などである。これらを組み合わせメリハリを利かせながら全力で集中していかなければならないだろう。まずは、全国闘争の受け皿を作りあげる事、そのためのスケジュールを確定する事から開始する必要がある。

 
 このたたかいは連絡会に取って決戦である。「法案」が本年中に作られる可能性は高い。我々はどうあがいたとしても、この情勢から自由たり得ない。が、それは治安色の強い与党案かも知れないし、民主党案に最悪の「修正」を加えたものかもしれないし、民主党原案そのままかもしれない。もしかするともっと良い「修正」が加わったものかも知れない。
 つまり、いかなる法案を勝ち取るのか?それがこの3か月で問われているのである。
 力関係を云々する程の力関係は我々にはない。が、だからと言って仲間の法案の成立過程を傍観するほど我々は評論家でも傍観者でもない。民主党原案をそのまま通す事を着地点とする仲間の制度化要求運動の盛り上がりを今から作らなければならない。そのために果敢に立ち上がらなければならない。

 2.7の総括をかけ、そして日々呻吟する仲間のニーズに応えるべく、自立支援のための制度を、やり直しのできる社会制度を早期に作らせよう。そしてそれを骨の随まで喰らい尽そう。9月決戦へ!


立法化をめぐるホームレス運動の今日を考える
笠井和明

 「国の責任」…。
 ある種の社会問題が、結果として政府の社会経済的政策により何らかの解決を社会的に求められる程深刻化した時(かつ、現行の法制度、法運営のもとでは、その解決の道が容易ならざる事が予想される場合は尚更であるが)、その社会問題に根差した、現状に甘んじない人びとの口から、この言葉が強く発せられるのは、ごく当然といえば、当然の事である。
 「責任」を取らせるという言葉を発するという事は、その社会問題の「解決」のため何らかの施策を具体的に実施させるという獲得目標が自動的に付加される。庶民感情としてではなく、実際に社会問題に根ざした諸運動団体がその言葉を発せれば、それは、尚更である。
 翻って「国の責任」と言った場合、何をもってその「責任」を取らせて行くのか?まずは、その前提として、ある種の問題が社会問題であるという認識を持ってもらわなくてはならない。そして、それを既存の法体系及び政策との絡みで深く洞察してもらわなければならない。更に、トータルな視点で、社会問題を解決していく具体策を現行法運用の強化、ないしは、新たな立法などの戦術を駆使し、かつ、責任体制と財政基盤を確保しながら実施してもらわなくてはならない。
 
 なにも、こんな分かり切った事をわざわざ書かなくても良いとは思うのではあるが、昨年秋からの東京におけるホームレス運動内の論議を見ていると、こんな事も書かざるを得ない。
 
 立法が人を縛る。これは真理である。人(社会)を縛らない法などは無意味であるからである。けれどもそれを根拠にして「法を作れというのは支配階級に手を貸すもの」というのはいかがなものか。
 法にもいろいろある。「ホームレス取締法」というのも考え方によってはあるだろう。また、地方自治体が要望している公共施設の適正化を柱とする「特別立法」というのもあるだろう。もちろん、それが今問題になっている訳ではないし、それを作れと言っている訳ではない。あらゆる組合がその活動の基盤としている労働関係法も、福祉活動団体がその活動の基盤としている社会福祉関連法も、また同じく法である。労働者保護法などは、労働者の要求や労働運動がなければ作られなかった。だからこそ、それを改悪ししようという意図があるたびに、労働運動団体と政府の間で鋭い緊張感が生まれて来たし、これからも生まれてくるものだと思う。新たな法を作らせなければ守れない権利というのはまったくないと言うのだろうか。もっとも「現行法でやれと」言うのも、この論理では、「支配階級に手を貸すもの」でしかない。好むと好まざるとにかかわらず、現在、法治国家で生活している以上、私達は法に支配されているからである。同様に、「対策は良いが、対策の根拠法は良くない」というのは、どう考えても、意味不明の論理の立て方である。そんな事を言っていたらどう「国に責任」を取らせていくのであろうか?もし、政府ー中央省庁が「対策をもっとしたいと思うが、根拠法がないのでなかなかうまく進められない、根拠法を作らせてくれ」と言ったら、「いや、法は絶対に駄目だ」とでも答えるのであろうか?

 昨年の秋の段階ならこの種の議論も許されたであろう。まさに、当時は立法化などというのは夢物語のようなものだったからこそ、運動戦術上の議論が可能であった。が、今年の春から夏にかけての情勢は既に民主党から提起された「ホームレス自立支援立法(案)」をどう評価するのか、この「立法(案)」が上程された時、運動団体がどう行動をするのかという段階に移っている。まあ、言うなればホームレス状態を憂うる民主党から「法案を作るのは国会議員の本来の仕事です。私達は自民党と違い皆さま方の『国に責任を』との声に応えるべく、人権を重視した自立のための法案を作りました。これを通せば全国の行政要求運動ももっと力強く出来ると思いますが、どうでしょうか?」と、ボールが投げかけられたのである。
 
 このごに及んで「支配の意図が」「法が云々」「自立が強要される」というレベルの客観的、評論家的、政治家的な論議ばかりをしているようでは、まさに先が危ぶまれる。

 この状態は「国の責任」をどう取らせて行くのかの戦略(獲得目標)なき運動の限界であり、「対策の拡大、拡充」というスローガンの破綻である。もっと言えば運動団体であるべきことを自ら否定した運動団体のていたらくである。
 
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 ホームレス立法制定要求の動きは1999年2月中央省庁による「ホームレス問題連絡会議」の開催前後から、地方自治体レベルの国に対する要望としてあがっていた。新宿区などは生活保護の現在地主義を改める特例法が必要だと言い、東京都、横浜市、大阪市などは仮小屋撤去の実効性ある法令の整備を求める(第2回連絡会議)など各自治体一様に悲鳴とも思えるような主張を繰り返してきた。99年4月には「ホームレス問題連絡会議関係都市会議(東京都、新宿区、川崎市、名古屋市、大坂市、横浜市)はこれら百科雷鳴する議論を一定まとめ(1)国の責任の明確化と指針の明示(2)相談体制の確立(3)自立支援事業の位置付け(4)公共施設の適正化を柱とする「特別立法」制定を当時の厚生省社会・援護局長に求めて来た。
 が、99年に発表された「当面の対応策」においても、また、同年から開始された厚生省による「ホームレスの自立支援方策に関する研究会」においても法制度化を示唆する文言すらなく、これらの要望はいずれも採用されず、今日に至っている。つまり、政府ー中央省庁の見解は、ホームレス対策は現行法で対応できるというのが一貫した考え方である。この間、政権はコロコロ変わってはいるが、「当面の対応策」は何ら見直されておらず、また、見直しを指事する言質もない以上、現政権も継承する政府の公式見解は今の所、唯一「当面の対応策」だけということとなる。
 「当面の対応策」を端的に言えば、「野宿者の急増は社会現象として認めるが、国の責任としては認めず、地方自治体の自立支援策を国としてはある程度支援する」と、言うものである。そして、悪名高い「3type」論を振りかざし、東京と大坂の施策を追認して「センター」と「シェルター」を作れば金だすよ、というレベルの代物である。つまり、このレベルが、学者や地方自治体とそれなりの議論をした末に結論づけられた政府ー中央省庁の「責任」の取り方なのである。

 私の記憶によれば、この「当面の対応策」の評価は、一部の団体を除き、国が一定動き出した事を前向きに捉えつつも、ほぼ全国的に「生温い」「とんでもない」という評価であったと思う。もちろん、だからと言って何をもって国に責任を取らせるのかという点での議論は、さほどされてはいなかったが…。
 現行法のままで対応できるのか、それとも新たな法制度が必要なのか、という点については全国の野宿者運動の側、支援運動の側からも様々な論点がこの間提起されている。
 釜ヶ崎反失連は99年5月「野宿生活者支援法(案)」の制定をホームレス問題連絡会議に求め、また、私達新宿連絡会も00年9月「ホームレス支援基本法」「自立支援事業関連法」の制定を国会に求める提言を発表し、国会請願デモを行ってきた。それらを受け、野宿者人権資料センターでも以降、議員ロビー活動を精力的に行って来た。また、連合大坂も00年11月「自立支援特別立法」の制定を求めるシンポジュウムを開催するに至っている。もちろん、この流れが主流的な流れかと言えば、決してそうではなく、全体から見れば少数派でしかない。
現行の生活保護法の運用改善が先決とする団体も多くあるし、要求運動よりも自前の力の部分に主軸を置いている団体も多い。そして、東京の現状を前述した通り、「法制化運動」に否定的ないしは懐疑的な団体の方が多数を占める。
 全国的に見ても、「国に責任がある」という総論では一致するものの「どう責任をとらせていくか」という各論になると一致し得ない。と、いうことは何らかの要求をもって全国統一行動が組めない主体であるというのが残念ながら私達の運動業界の現状である。ただ、それぞれの運動団体がそれぞれの領域で張り合っている関係でしかない事である。このごに及んでもである…。
 
 さて、今般発表された民主党ワーキングチームによる「ホームレス自立支援立法(案)」であるが、ここにまで至る経緯はともかくとして、その内容を見て頂ければ分かる通り「ホームレスの自立支援」をキーワードにしながら国の責任と義務を明確化させたものである。また、ホームレス概念も広くとらえ、防止策も含めて施策課題にあげるなど、かなり「リベラル」かつ国際感覚もある的を得た法案にまとまっている(「野宿者支援立法」などと表記する人びともいるが、立法案の対象が野宿者に限定していない点こそ重要な点である)。
 私達は民主党云々という事ではなく、野宿者の利害という観点からしてこの法案を評価し、支持する。つまり、東京サイドの運動から見ても、今後の対策の拡大、拡充(とりわけ就労面)、そしてホームレス化の予防策を路上に作り出すためにもおおいに活用できる法律となる事が予想されるからである。
 政府のこの10年来の怠慢ぶり(政治的に言えばそれは単に自民党のみの責任ではなく、この10年来政権を担って来たすべての政党の共同責任でもある)を糾していき、ホームレスに対し適切な自立支援等の対策を全国的に拡充させるためにも法律で政策を確定させ、かつ省庁を縛るという手段は最も有効、かつ最もシンプルな手法であると考える。中央も地方も法がない事に胡座をかき、現行法の部分的な適用でお茶を濁して来たのである。中央は政策の不作為で野宿者を増やし、地方はそれを押し付けられ、規模の大きな対策も出来ずに挙げ句の果て「苦情」をもとにした一方的な排除。そして、野宿の固定化、差別の助長を社会に刻印し続けている事こそ問題なのであり、それを転換していく政策が問われているのである。ホームレスの自立支援のための根拠法制定はその突破口となり得るし、その最も近道であると確信する。
 法律というのは、もちろん法律でしかない。それを血の通ったものにしていくためには、今後の対策推進のための、筋の通った要求行動がなくてはならないだろう。けれど、それにしたところ、根拠法があるのとないのとでは大違いである。また、生活保護法を本来の理念通りに運用させていくためにも、自立支援に関わる立法は必要である(この論点は私達は「政策提言」1999年に詳しく提起している)。つけ加えて言うなれば、生活保護法で救済せよという論法を立てた場合にしても保護法4条と対になるかつての失対事業関連法に類似したものが必要であり、その要求がない所では「生保至上論」は論理矛盾に陥る。第二失対の要求にした所で新たな法整備を抜きに語れない(生活保護法という木だけを見て、法体系という森を見ない人びとがいかに多いか)。
 好むと好まざるとに関わらず、現行以上の対策を行わせるには、法に手をつける以外にないのであり、それを運動の課題にしてはならないとなれば、もはや、今の対策レベルで満足する事を当事者に強要する運動でしかなくなるだろう。
 国会議員は法を作るのが職業なのだから、それなりの法を作ればそれまでである。が、私達活動屋は法をつくらせるよう提言し、大衆的な行動をし、その結果たとえ法がすんなり出来たとしても、それで終りではない。法を要求する過程は、対策を前進させる過程にもつながり、政策を要求していく過程にもつながる。そういう長い道のりの一こまにしか過ぎない。しかし、だからと言って、今現に進められようとしている法整備情勢とつきあわずに、国会の事は知らない。法の事は勝手にやってもらいましょう、では、つじつまが合わない。もし、自民党あたりが治安色の強い「立法案」でも出していたらこぞって反対しようと言うに決まっている人びとがだ。少なくとも今課題となっている「自立支援法案」に反対なのであれば、見解ぐらい出すべきであり、可能であるなら対案ぐらい出すべきであろう。どういう対策を求め、どうそれを実現させていくのかという具体的な戦略も含めて。
 
 泥にまみえず静観する評論家的な立場とは一線を画すのが、私達活動屋の活動屋たる所以であるならば。


 法案問題を考える
笠井和明

「いつまでこの場所にいられるのか?」「一方的に追い出される心配はないのか?」「役所の対策は本当に完璧なのか?」
 これは、公園や河川敷にテントなどを張って生活している人々の、ある意味では自然な発想である。
 公共用地の占有は合法的なものではないという事は、そこに住む人々が一番身に染みて理解している。つまり、いつまでもここにいられる訳ではない、という事を。その居住の不安定性の中で生きているが故に、日々「追い出し」という不安に苛まれているのが現状である。
 一方的な排除(移転に伴う対策がない、もしくは十分ではない、もしくはそのために十分な話合いがされていない形の移転強要)への不安を東京において徒に高めているのは、言うまでもなく青島都政下での強制排除事件(96.1月)の存在である。もはや5年も前の事件でありながらも、行政は貧しき人々にも権力的な牙を平気で剥くという象徴的な事件として今でも記憶は生々しい。
 「対策」に対する不安、福祉窓口へ行きたがらないなど行政への不信感も、個別的ないしは層的に被って来たこれまでの経験が形づくったものである。そして、事実、役所の対策は一定の前進は見たものの全体としては、決して十分とは量的にも質的にも言えない。
 が、他方において、自らの生活をレベルアップさせていこうとする自立への意思は、その厳しい生活条件から必然的に様々な方向で生み出されている。テント生活などもまさにその現れであり、雑業就労や貧しい人々の協同性といったものも人生を諦めない人々からは自然に発せられている。
 個々の自尊心や自立の意思が社会政策とリンクされない不幸な、そして歪んだ状態は、公園や河川敷での定住野宿者層を増加させている。
 では、これら定住した野宿者層が居住地の合法化を求めて、永遠にその場での永住を望んでいるかと言えば、当然ながらそうではない。永住を望む程にその住環境は快適でもなければ最低生活水準にすら満たしていないからである。が、他方においては他の選択肢がないところにまで追い込められた人々は、即時的には今の生活水準を維持しようとする。
 即時的には今の生活を防衛しようとする本能が働きながらも、中長期的にはそこから脱していこうとする希求を持ち続けている。時間軸を考えなければ相矛盾する希求が同居するのが、野宿者層の中で比較的恵まれた階層である人々の現状である。
 現状の生活を維持するためにいくばくかの収入が欲しい、何らかの援助が欲しい。これは即時的な要望である。行政の施策から言えば応急援護の領域である。その即時性に依拠しようとするとある運動団体は「(山谷、日雇労働者対策である)特別就労対策を全都に拡大しろ」とかいう短絡的な要求スローガンを掲げている。
 かつての川崎市のパン券支給の失敗にも明らかなように、応急援護というのは、それが固定してしまったら応急援護ではなくなるのである。福祉事務所がどんなに寒かろうと野宿するための毛布を応急援護物資として提供しないように、野宿を固定する事が目に見える公的就労の提供は路上生活者対策としては、よほどの緊急事態にならない限り、考えようがないのである(もちろん、寄せ場対策、日雇労働者対策としてホームレス予防施策の雇用対策としてはあり得るし、必要であると考えるが、いずれにせよ、路上対策として雇用対策を言う場合、居所確保なりの施策と一体の要求として打ち出し得なければその現実性は極端に薄れる)。
 中長期的な政策実現の方向性すらなく、即時的な要求を何ら要求路線として整理せずに行政要求としてまとめるのは、運動団体の任務放棄としか言い様がない。
 また、「路上の権利」(行政施策とは無関係に生き続けている野宿者の権利という意味らしいが)とか言う用語がこの種の運動団体から発せられている今日この頃であるが、それは、法がどうのこうのとか、合法か非合法かと言う問題ではない。その生き方の自発性が自ずから権利を持つか否かという問題であり、その状態を権利として認めさせるか認めさせないかの問題ではない。野宿者の権利保障というのは、テント生活を法的に合法化させる事でも、その当面の即時性に跪くことでもない。社会的に野宿状態を緊急避難的に容認させて行くという事は、その状態を悪化、後退させる事なく、また、その状態を固定化させる事なく、より野宿以上の生活への移行のため、より良き社会政策を導かせて行くためだけの容認である。一つの選択肢として野宿の権利という事は言えるのかも知れない。が、その選択肢すら社会が準備していない段階においては、自由権的はあったとしても社会的には権利という用語は使えないだろう。

 私達が今、野宿当事者や社会から求められているのは何か?それは今の現状を悪化させる事なく(一方的な排除などさせず)、野宿から脱せられる選択肢可能な施策を打ち立てて行くことであり、その構築過程において不幸な行政不信、社会不信を払拭させる事である。
 即時性のみに依拠すれば、それは中長期的な観点のないその場しのぎの運動にしかならない。他方で中長期的な課題ばかりを言っていても当事者から夢物語りのように感じ取られる。
 必要なのは、即時的な対応に可能な限り応える事の中から中長期的な方向性を見い出そうとする意識を作り、またそのための要求運動を現実的に進める事であろう。
 その関係性を理解しない事には、所詮運動の側が野宿状態を悪くはさせないものの、固定化させてしまい、発展の経路を閉ざしてしまうという結果にしなならない。即時的にはそれで良いのだろうが、「野宿のまま頑張ろう」は中長期的方針とその実現力がない所では「野宿のまま死のう」というスローガンにしかならない。
それはそれで運動をしている人々は運動が維持できるから良いのであろうが、当事者の犠牲の上に胡座をかいている醜悪な運動団体としか言いようがない。

 今回の民主党によるホームレス自立支援立法案に対する私達の評価はすでに各方面で表明している通り、極めて良心的であり、また先駆的な内容をもった力強い法案に仕上がったと考えている。そして、そうであるが故に、現在、この法案の早期成立を求める運動を推進している。
 この私達の立場は上記のような基本的な観点を8年来の実践で培ってきたが故に生み出されている。
 新宿連絡会の運動上の失敗は強制排除に対する必死の抵抗闘争をやりながらも、その後の発展の経路を見い出し得なかった事にある。すなわち「不法占拠」状態を有効な武器にし得なかったのである。その結果が無目的な新宿駅西口広場のダンボール村形成と、多くの仲間の路上死、そして火災による村の焼失を招いた。
 国が悪い、行政が悪いという事なら誰でも言える。事実悪いのだから。が、運動の無目的が人を殺し、状態を固定化しているという反省はどこの団体からも聞こえない。おそらく「仲間のためにたたかっているんだ」「俺たちは野宿者を組織している」と自己満足をされているのであろう。
 彼等の総括というのは、それが足りるか足りないかというレベルである。そして、都合が悪くなるとお決まりの文句「主体が追いついていない」。
 
 路上に「堕ちた」人々を路上におよそ「真っ当」ではない形で固定させてしまっているという社会にとっての問題性は、私達社会全般の無関心という一言に尽きる。
 それを背景にしながら政治の無策、無関与、そして地方行政の「排除なのか保護」なのか分らないような不信感を植え付ける中途半端な施策の垂れ流し、そして、即時的要求の対応のみに右往左往し、何らの方針も出せない支援団体、ボランティア。

 もちろんこういう観点を私達は他者に押し付けるものではない。私達の考えは崇高な理念から導き出したものではなく、長年の様々な経験から生み出されたものであるから尚更である。法案問題についても様々な評価や見解があっても良いと思う。法の整備や新法が必要がないと思う人々や団体はそのための運動をしなければ良いだけだからである。いずれにせよ、そこに野宿故に日々呻吟している人々がいる事を忘れないようにと、願うのみである。

 私達が法制定をこれほどまでに望むのは、現行の制度がもはや機能不全となっている事に我慢が出来ないからに他ならないし、その突破こそが求めれていると現場感覚で考えてきたである。
 よく現状をよく知らない人々などから生活保護という制度があるのだから、この運用面を改善させていけば良いという意見を聞く。もちろん私達は94年より新宿区に対する福祉申請行動という活動を組織しながら、病弱者や高齢者の保護を数多く勝ち取って来た。そして門前払いという、それまでの運用を大きく改善させては来た。もちろんこの活動は連絡会活動の基本であり、「仲間の命は仲間で守る」具体的な守りかたの一つであり続けるだろう。生活保護法の本来的姿から考えれば、病弱者や高齢者の保護というのは最低限の運用である。そこまでの到達点にある程度達した時、その次のレベルは何かという問題に突き当たる。もちろん私達は生活保護の適用以外にも屋根と仕事につながる様々な要求をして来た(94年総合要求書など)が、それもことごとく退けられ、最終的には応急援護の多少の拡大によって「対策」と位置付けられた。
 では、生活保護法の本来的な適用を求めて所謂「失業保護」も認めさせるために連絡会が動いたかといえば動かなかった。路上の防衛ラインを病弱者、高齢者、障害者の生活保護適用という水準に定めた。どこかの生活保護至上主義な社会学者が「連絡会が福祉の基準を運動の側から作って福祉事務所を免罪した」と批判する所以である。
 私達の要求の鉾先は生活保護全面適用という論理から離れ、「屋根と仕事を」というスローガンは他法活用(実際は法外援護の総合的、計画的な推進による対策体系の確立)への道を歩む事となる。
 生活保護の運用が法に照らして適切でないのは周知の事実である。しかし、何故違法運用がまかり通るかと言えば、生活保護法が唯一の社会のセーフティネットとして法体系の中で取り残されてしまったからである。だからいくら厚生労働省が「適正化」の通達をだそうが、いくら東京都福祉局生活保護課が指導に乗り出そうが、ある一定のライン以上の運用改善は実際上不可能なのである。
 「最後の砦が最初の突破口となっている」と私達は表現したが(1999「政策提言」)、生活保護法を本来の法運用を実現させるためにも、路上から脱せられるその他の施策、とりわけ就労自立に結びつく(かつての失業対策事業のような生保と両翼となる)施策こそが必要であると考えたのである。その方向性を私達は自立支援センターに求め、また今日「ホームレス白書」路線を取る東京都が打ち出した緊急一時保護センター、自立支援センター、グループホームの三位一体的な総合施策として実施させる事を求める方向を紡ぎ出して行った。
 仲間の声もきかないで勝手に運動路線を決めるなと、「仲間の声」を大義名分にしている団体から怒られそうであるが、連絡会程仲間へのアンケートを実施し続け、それをその時々の情勢と符号させながらち密に分析している所は他にないと私達は自負をしている。
 純粋な制度の論理から言えば確かに今ある制度の運用面を改善させるのが筋である。が、仲間の現実の声は、病弱者や高齢者を除いた稼動年齢層の人々の多半は「自らの手で飯を食うこと」、そして「働きながら自立すること」を望んでおり、行政支援はそこに至るまでの一時的であるべき事を望んでいる。彼、彼女らの自尊心は自分の生き方に対する生保的な過剰な行政介入を拒否していた。ならば、そういうシステムを作ることが運動上の課題となるし、自立支援事業などを法外援護として財政的、制度的に不安定な状態にさせ、一人歩きさせる危険性を放置するよりも、制度として確立させる方がよほど良い。ついでに国が責任を明確化して、財政措置などもしっかりとさせた方が施策体系を今以上拡大させて行くためにもちょうど良い。
 自立支援立法というのは、私達に取ってそういう流れの中で位置付けられているものである。
 
 「仲間の声も聞かずに勝手に作るな」という声も多いようだが、そう批判する方々は仲間の声をきちんと聞いて(即時的だけではなく)、理解し、分析し、仲間の要求として具体的な運動側が求める政策としてまとめ、それにもとづきとことん地方自治体などとたたかった事があるのだろうか?
 もちろん、踏み込んだ論議というのは、全国的な運動の蓄積や経験によって温度差が出るのは仕方がない。法と言えば支配制度を思い起し、法を運動が作らせる事に感覚的に反対する人もいるのも事実であろう。即時的に「一方的な排除は御免だ」「役所は信用できん」という声に依拠し、あたかもそれを錦のみ旗かのように振りかざし「排除の危険がある」とピーター少年のように騒ぎたてるのも致し方がないであろう。
 しかし、だからと言って法の制定を遅らせる訳にはいかないであろう。生活保護の運用はいくら頑張ってみた所で本来の姿で運用はされ得ない。野宿の仲間の状態は様々な側面からも悪化し続けている。今後の構造改革の中で新たな野宿の仲間が急増する可能性もある。再び減速し始めた景気動向は自立支援センターの就労率を大幅に下げるかも知れない。
 野宿状態の固定化を避けよう、路上から脱する支援策を作りだそうという指向性をもった常識的な人々なら、新たな施策の必要性、そして国が責任をもった抜本的な施策の実施、それを規定する法整備の必要性は分って頂けると思う。やり直しができる社会がどの領域においても今、真剣に求められているのだから。(了)


 「ホームレス自立支援法」の議論の仕方について
笠井和明

「ホームレス自立支援法案」の状況は今現在かなり厳しい状況になりつつある。もちろん今後どうなるかについては流動的ではあるが、いずれにせよ、政局面レベルにまで、幸か、不幸か注目されてしまった以上、どこかでいずれ「着地」すると考えられる。
 今臨時国会においてかなりの線にまで「法案」制定局面にまで至ったのは私達の運動を背景に民主党及び自民党などの良心的な議員が最大の努力を傾けて下さったおかげであるが、その流れをぶち壊したのはまさに朝日新聞、および公明党の「おかげ」であろう。
 11月6日、朝日新聞の一面トップで決ってもいない事柄がいかにも決定したかのようにリークされた事により、それまで順調に進んでいた臨時国会における「法案」取り扱いが急変してしまった。公明党などが「聞いていない」「民主党と勝手に協議するな」などと「待った」をかけ、法案の中味ではなく、与党三党の枠組みなる永田町の論理で早期制定の流れは立ち消えとなってしまった。
 もし臨時国会での法案制定が流れることがあるようなら、その責任はこの両者に取ってもらいたいものだが、あまりにもこの両者の子供じみた議論の仕方を見ると一言も二言も言いたくなる。
 朝日新聞は民主党案をベースにして付け加えられた修正箇所「総合的な施策を実施しても、ホームレスによって公園や道路などの利用が妨げられる時は、管理者が必要な措置をとる」(朝日新聞より)について「排除にお墨付きを与える」のではないかと自信なさげに警告した。公明党や一部支援団体は朝日の意図的な宣伝に乗り、「排除条項が盛り込まれた」「修正法案は駄目」「自立か排除かが迫られる」等々、長い「法案」問題への沈黙を破り、ここぞとばかりに言い始めている。
 もちろん「強制排除はよくない」。よくないどころか「強制排除」では何らホームレス問題の「解決」にならないのは、それこそ96年段階において普遍化されている筈である。東京都もその後「強制排除」優先ではなく、自立支援の体系を揃えていく事こそ必要であると認識している。もはや、これは国際常識からいっても、国内常識からいっても時代の趨勢である。
 が、木を見て森を見ない人々は未だ「強制排除VSホームレス」という構図を描きたがる。どうしたらホームレス問題を「解決」できるのかという視点すら明確にせず、「強制排除」への「抵抗」に全共闘世代よろしく何らかの夢を見る。だから、ちょっとした事でも鬼の首を取ったかのように騒ぎ出すのである。
 法案制定を求め一貫して運動をし続けて来た私達は朝日や公明や一部支援団体とは違い、もっと冷静である。「法案」の骨子がホームレスの自立支援を主眼におかれている限り、そこに多少の「傷」がつこうとも、それは運動の力で克服できるものと考えている。「法案」制定運動の最も肝心な獲得目標は、「自立支援」をキーワードにした国が責任をもって(まさに「対策」ではなく「施策」として)、野宿の仲間の「屋根と仕事」に結びつく(そして防止策も含めた)社会的な支援網を構築する事であり、そのための制度を作りあげる事である。私達はこれを全ての基準にして「法案」を評価する。
 そもそも「排除」をやたらと危惧する人々が考えているような「強制排除」を全面にした法律など国際法規の水準や国内法規の水準から考えても作られようがない。「排除法案」というのはピーター少年が夢想する幻の「法案」である。つまり、あり得ないのである。
 問題なのは自立支援にせよ、公園や河川敷の管理の件にせよ、いかにそこに住む人々の人格、人権を尊重するかであり、その意味でいかに当事者の意識とマッチした「人道的」な施策体系を作るのかがポイントなのである。
 たとえば、自立と言った場合において、人それぞれ自立の概念と方法は違う。それは就労自立一般ではないし、また就労の内容も年齢や経験による幅がある。行政はおうおうにして単一的な体系を持ち出したがるが、その施策の前提として、対象としている人々への「多様さ」への認識が問われている。もちろん微妙な差異については民間団体などの領域と考えられるが、それにしても、硬直で単一的な施策しか用意しないのではお話にならない。こういう硬直さや単一さが、「一方的な施策の強硬」、「自立の強要」と批判されるのである。
 公園などの管理なども同じ構造である。未来永劫、公園を占拠し仮小屋暮しをしたいという人々がいない限り、(行政も含めた私達の社会が)今の現状からいかに脱却するのかを当事者に提示していかない限り、単に野宿より良かろうとプレハブ施設を作ったとて本質的な「解決」にはならない。そこに自立へのプログラムと具体的な展望がなければ、仮小屋暮しが、施設暮しに変っただけの話で終ってしまう。公園などの「適正化」とはそこに暮さざるを得ない人々を作らないという事であり、そのことにこそ主眼を置かなければ、いつまでたっても「適正化」などあり得ない。
 付け加えて言うならば、管理権の発動は何も新しい法律を作らなくともいつでも可能なのである。その意味では朝日新聞が心配しようがしまいが「排除法案」は既に存在しているし、管理権の発動は常時行なわれている。「自立支援法案」にあえてこの件を加える必要性はあるとは思えないが、是非、加えたいというのであれば、上記の観点から、「適正化」の権限を法的に制限する、自制させる方向で加えるべきであろう(朝日の記事で「暴露」された「修正案」というものは実はそのような形になっている)。
 私達が望んでいる「法案」と言うのは、野宿に陥ってしまった人々が自立(概念規定することなく幅広い意味での)出来るのための社会制度であり、その制度によって自立への選択肢狭まるのではなく、制度によって「多様」なニーズが充足され得る「幅のある」制度である。
 制度や法と言うと、何やら行政一般としか発想化しない偏狭な人々も多いが、制度や法は社会を規定するものである。私達のような民間団体もまた、そのための存在意義を認められ(NPO法人を取ろうが取るまいが)、民間レベルにおける支援活動も今まで以上の努力が問われて行くのである。自立への選択肢を広げる、単一的な施策を批判するという意味では、民間が果たすべき役割は大きくなる。
 法や制度の確定というのは、行政や民間団体が、そこまで踏み込むか否かと言う意味を持っているのであり、私達はもはや、社会がそこまで踏み込まなければ、路上の仲間の命は守り切れないと判断したが故、法制度化要求運動を行なっている。
 もはや都市において誰しもが「気にかけている」「気がついている」のがホームレス問題である。が、「何をしたら良いのか分らない」というのが本音であろう。こういう構造にマスコミも支援団体も甘んじ続けてきたのが、この10年である。
 「いかにしたら野宿から脱せられるのか?」
 この切実な思いに対する「回答」を、それがたとえ間違っているかも知れないものでも、社会は今迄提起した事もない。
 が、時期は熟している。国会の場においてさえ、この問題が、大きな議論を巻き起こす重要な問題として認識されつつある。この期を逃したら、また私達の社会は大きな後退を余儀なくされるであろう。
 「評論家」的な立場での議論を止め、今こそ、実効性をこそ求めていくべきであろう。
 国が責任を取るという事はいずれにせよ大きな「第一歩」なのであるのだから。


「ホームレス自立支援法」の議論の仕方についてその2
笠井和明

 「国会で排除を組み込んだ与党のホームレス特別立法が提出されようとしている」「排除と治安対策前提の法制化に反対しよう」なるフレーズが東京某所の地から全国に出回っている。
 事情を知らない人がこのような文章に接したら、かくなる与党の「特別立法」が既に出来上がっていて、通常国会の冒頭にも提出される段になっているのかと勘違いをなさる事だろう。が、事実としてそのような事態にはまったく至っていない(与党ワーキングチームも意見に差がありすぎるため結論を出せずに流会している)。これが冷静かつ客観的な事実である。
 事実ではないことをいかにも事実かのように組み立て、そして煽る。法案反対派の手法もここまで来たかと私などは実におぞましくなるのである。まあ、これは運動政治によくありがちな煽動の仕方なのであるが、こういう政治(排除があるぞあるぞと仲間に恐怖や不安を与え、自らの運動団体は排除とたたかっていると自己確認する傾向)を路上に持ち込むことは百害あって一利なしと断言しておこう。 
 しかも更にたちが悪いのが、煽動するはいいが自らは何も運動方針すら立てずに現状に胡座をかいている事である。もし、そういう動きが本当にあるのなら、そしてそれとたたかう必要性があると判断するのなら、方針を持ち具体的に動き出すというのが運動団体の責務である。運動も作ろうともせずにピーター少年よろしく「騒いでいる」だけなら、本当に狼が来た時には誰からも信頼されないだろう。
 まあ、ここまで書いても彼等にはとんと解らない事なのであろう。
 無論、新宿連絡会も強制排除には反対である。そのために実際にたたかって来た経緯もある。この立場は何ら変わる事はない。だからこそ、昨年末の与党内の議論の中で、大阪市が「公園などの適正化をし易いような法制度化を」などと時代錯誤的な横やりを入れ、大阪市に利害関係を持つ国会議員が民主党案の取り扱いに反対した局面においては、国会前での大衆行動を行うと共に、その先鋒たる議員にも直撃し、また某党本部にも行動を起こしながら、強制排除という手法は間違っている事を行動として訴え続けて来た。もちろん大阪の仲間は大阪市への抗議も様々な形で取り組んでいる。
 具体的にそういう時代錯誤的な動きを潰していく。私達はそうやって強制排除反対という立場を貫いているし、これからも貫くだろう。
 私達は評論家的な「小泉だから強制排除するだろう」的な政治憶測で行動は起こさない。また、「政治家だからろくなものは作らないだろう」という井戸端会議的な発想には立たない。
 政治経済の破綻から生じた野宿者の増加は、野宿当事者に日々困窮や危険を強い続け、また地域住民との軋轢も生み出している。これの調整に入るべき行政は自立支援の制度がないために右往左往している。ならば政治の責任として新たな制度を作り、この社会問題を解決すべき努力に傾注すべき、という当たり前の事を私達は主張し、また、そのために民主党案を支持し当事者の運動を進めているだけである。
 民主党案を支持しないのならば、別の案を出せばよいじゃないかと私達は各方面で言い続けているのだが、ケチつけや反対はするものの未だにそのような動きはない。国の責任とか社会問題として考えましょうなどと運動団体は口先では良い事は言うものの、内実はそのようなレベルでしかないのである。
 政治批判だけで運動が成り立っていた冷戦時代そのままの運動をしている限りでは、仲間の信頼も、運動の未来もない事を自覚すべきであろう。各地で様々な活動をしているボランティアの方々の方がよほど先駆的である。


「ホームレス自立支援法」の議論の仕方についてその3
笠井和明

 ホームレス自立支援法に関する論議の中で、主要に西の方から聞こえてくる疑問の声は「(法案は)自立支援センター事業を後押しするものでしかない」「不十分な現状の野宿者対策が合法化される」「生活保護法を全国一律に適正に運用させるべきだ」などなどの声である。
 大阪の自立支援センターでの自立率は「全体の1割程度」であると言う。私は大阪での自立支援センターの内情を詳しく知る立場にある者ではないが、「評判は芳しくなく」「あまりうまくは行っていない」との風説はたびたび聞いて来た。
 このようにあまりうまくは行っていない事業を新法が「後押し」し「対策の不十分さ」が合法化されるとすれば確かに疑念の声があがっても不思議ではないであろう。
 けれども実際上問題なのは、大阪市など地方自治体が行っている自立支援事業の「不十分さ」にあるのではないのか。
 うまく行っていないから「やめちまえ」と言うのか、うまく行っていないからこそ「効果的」に行えるようにと、建設的議論をしたり、民間で出来る様々な関連事業を行ったりしようと言うのでは大きく違う。また、生活保護を適正に運用させようとする事と自立支援事業を進めようと言う事は相反するものではなく、自立支援事業を後押しする法律が出来たからと生活保護法が廃止される訳でもない。
 生活保護法にも「自立の助長」は謳われており、また、今回の法論議でも基本は「自立の支援」である。「保護」と「支援」という差異はあるものの、それぞれの法が「適正」にかつ「十分」に機能していけば、良いのではないのか。
 つまり、法があろうがなかろうが「適正」に運用されているのか、「十分」に機能しているのかという点は常に問われるのである。だからこそ私たちの立場から言えば法が出来る事が最終目的ではなく、その法の運用が「適正」かつ「十分」に働くよう、監視し、批判し、提言し、交渉し、部分的に協力し、と言う側面が重要であり、その事の結果こそが最終目的となるのである。
 もし、自立支援事業がうまくいっていないから「やめちまえ」、その代わりに生活保護法によって総ての野宿者を保護すべきだ、と主張しているのであれば、これはまさしく暴論と言えるだろう。誰でも彼でも都市貧民を(生活保護施設である)厚生施設に「ぶち込んだ」戦後史を見る限り、生活保護法だって「集中的・効率的に野宿者を収容」しただけじゃないかと言いたくなる。
 だから、問題なのは、いかに「素晴らしい」法であろうとも、いかに「不十分な」法であろうとも、それをいかに当事者のニーズに即して運用させていくのかなのである。
 こういう立場に立つならば、「ホームレス自立支援法」を制定させることに一体何の問題があろうか。 まったく摩訶不思議と言うしかない。
 地方自治体の「対策」や「自立支援事業」、はてまた生活保護運用が「不十分」かつ「適正」でないのであれば、それを変革・改善させる立場に私たちは立つべきであるし、その際の武器に法律がなるのであれば、その制定を(内容も含め)求め、それを利用していけば良いだけの話である。
 「不十分な現状の野宿者対策が合法化される」かどうかは、まさに私たちの力量にかかっているのである。その事と自立支援法制定の問題を「ごっちゃ」にしている限り、その議論は客観的、傍観者的な議論と言うしかないだろう。