東京路上物語

笠井和明(1998 年)

 この初夏、都内主要野宿者居住地をめぐり歩いた。これは、その記録である。

1、今も昔も
 「東京の最下層とは何処ぞ、曰く四ッ谷鮫河橋、曰く下谷万年町、曰く芝新網、東京の三大貧窟即ち是なり。」(横山源之助「日本の下層社会」より)
 たかだか百年くらいでは民衆の歴史はそう変わらないのかも知れない。横山の時代と同様、今日、社会の最下層に置かれた人々の密集地は、新宿界隈、上野・浅草界隈、神田・銀座界隈と、かつての三大貧民窟とほぼ似たような地域である。

 ホームレス(野宿者)が住む場所は、都市の歴史からは逃れらえない。その自縛の中にいつもある。

 江戸末期無宿人が集住地と選んだ荒川や多摩川など河川の橋のふもとには、今も仮小屋が並び、昭和恐慌時にルンペンの名が一躍普及した隅田公園には、テント村が出来、ベンチでごろ寝の人々が今も集住する。戦後水上生活者の舞台となった日本橋川、神田川にも、橋の上、橋のふもと、川沿いの場末に仮小屋やリヤカーが並び、戦災浮浪児のたまり場となった上野は今も都内最大の野宿地として公園や駅のいたるところに失意の人々の姿がある。新宿、北千住などの宿場町は雑多な下層を吸収し、今や歓楽街の構成員として彼・彼女らの姿はいつもそこにある。

 東京に下層の民はつきものである。何故ならこの都市は寄せ集め、ごった煮の都市だからである。天皇や貴族や大資本家から、商店主、ホワイトカラー、ブルーカラーの勤労者から、果ては不安定な、露天商、日雇、失業者、浮浪者、さらにチンピラ、ヒモ、まで、階層はよりどりみどり、まるでデパートのような都市だからである。もちろん住む場所はそれぞれの階層に則した場所が選ばれる。天皇は皇居に住み、金持ちは麻布などの高級住宅地に住み、サラリーマンは世田谷などの住宅地に住み、チンピラやヤクザ、売春婦は歓楽街の中に住み、労務者など貧乏人は下町の共同住宅に住み、さらに不安定な人々は川のほとりの場末にある貧民窟やドヤ街に住む。

 そんな風に考えてみると、今日のホームレスが麻布や世田谷に群れをなして居住していない意味もまた分かる。路上や公園や河川敷に住む彼・彼女らが意識しているかいないかはともかく、とりわけ貧者はその過酷な生活に即した最も生きやすい場所に集住するのである。ホームレスといえども食って寝なければならない人間である。あえて生業が成立し難い場所に生活する訳はないのである。となれば、底辺の街に住むことが生きるための最低条件と言えるであろう。そうやって自然に貧乏人の街は貧乏人の街であり続けたし、路上に住まざるを得ないような最底辺の人々が住む場所は、都市開発の波は受けつつも基本的にいつまでも野宿者居住地と残り得たのである。
 闇雲に東京の街を歩いてみても、ホームレスにはそんなに多く出会えない。けれど、このようなことを考えながら東京の街を歩くと、そこには下層の別世界が広がる。東京とは本来そういう街である。

2、河原編
 隅田川、蔵前橋から橋場の白髭橋にかけてのブルーテント村は、今や都内有数のホームレス居住地と化し、たびたびマスコミでも取り上げられるようになった。「リバーサイド開発」とか言って堤の内側に丁度住み心地の良さそうなテラスを作りだしたから、いつの間にかこんな格好になってしまった訳である。

 数百と続くブルーテント村は壮観である。けれど、これはあくまで表の隅田川の顔という気がしてならない。都庁が出来て地下道を整備したらホームレスが居着いてしまった数年前の新宿西口の四号街路のようなもので、あくまでそこの主人公は整備されつくした都市の方である。

 白髭橋を過ぎ、荒川区川の土手を進むともう一つの隅田川の顔がある。わずかに残った隅田川沿岸に住み続ける下層の姿が、開発ラッシュに沸く汐入地区(荒川区南千束八丁目)には風前の灯のようにそっと残されている。 昔から貧乏人は河川のふもとに住まわされた。洪水、浸水は下町の代名詞である。再開発地域に指定され、巨大な集合住宅が次々と建設され、ニュータウン化されつつあるこの地域に、虫杭状態で残された家並は、トタン状のまるでバラックを彷彿させるものや、昭和三十年代には都内に普通にあった木造家屋。立ち退きをすませた家や既に取り壊されフェンスで囲まれ雑草が生い茂る中、そんな古い家並がポツリポツリと残っている。そこを囲むように隅田川の灰色の堤防がキリリと立つ。「解体される戦後」というに相応しい光景の中、その堤防には木材で作ったホームレス達の仮小屋が数十件並び、洗濯物が風に揺れる。取り残され、見棄てられた階層の最後の意地のような寂寥感を、この光景は見る者にいやおうなしに植え付けている。

 隅田川とは本来下層にとってこういう寂しい場所なのであろう。消してしまうにはあまりに惜しい切ない光景であった。
 河原は下層、とりわけ最下層の故郷のようなものであるのかも知れない。
 多摩川で知り合ったじいさんの話しは印象的であった。七十過ぎのこのじいさんは、昔は鳶の職人、自信あふれる仕事を全うしたのか寸分もすきのない顔立ちだ。釣り好きのじいさんはある日千葉のアパートに帰ったらコソドロに入られたらしく、金目のものがほとんど盗まれていた。こりゃ仕方がないと、じいさん、何を考えたか自転車に日用品だけを積みこみ、以前釣りに出かけた多摩川に出奔、以来三年近く、多摩川の人目につかぬ竹藪の中での仮小屋暮らしを続けている。生計は古物回収、銅などを集め業者に卸す。その小屋はまるで田舎の山奥によくあるような小屋で、実に立派、すべて手作りだという。なんと入り口には風避けの垣根まである。薪を燃やして自炊をする。

 何か望みはないかと聞けば、

 「発電機が欲しいんだけどもなあ、役所が来て駄目だって言うんだ」

老人ホームをとやかく言う気はないが、このじいさんに福祉をすすめる気にはとうていなれなかった。立派な自立した老人である。
 その昔橋の下に乞食が集住するのは物乞いのためであった。が、今の社会で物乞いをする者は少ない。橋の下や河川で生活する者はなんらかの専業的な生業をもっている。その代表格が土地を利用した古物回収、そしてまた土地を活用した耕作。

 六郷土手の近くに行けばいく程、そんな耕作地が増える。不法占拠に不法耕作と不法だらけだが、そんなことはお構いなし。とにかく生きるために仕方がない。人様のものを失敬するよりゃ、よっぽどマシだ。

 東海道線の下の村はそんな活気があふれる村だ。訪れた時は丁度端午の節句、なんと鯉のぼりが、その村には高らかに舞っていた。これにはさすがに絶句。数年に一度の撤去など怖いものなしという風格あふれる村である。サワ蟹がザワザワと動きまわる自然の中で人々はのんびりと暮らしていた。

 「そりゃ、まともに暮らしたいけど、仕方ないもんね、今のご時世じゃ」

 仕方がない地点から発する底力は確実に河原の村にはあった。
 荒川もまた多摩川と肩を並べる底辺居住地。同じように人目のつかぬ、竹藪や葦の生える中にポツンポツンと小屋が並ぶ。この季節でようやく屋根が見える程度だから、夏になれば背の高い葦にスッポリ包まれてしまうだろう。

 荒川沿いの地域も開発の足音は忍びよっている。足立区、墨田区、北区など住宅開発の中で、昔の下層の街に住みずらくなった人々が故郷においやられるよう、河川敷にはこの数年仮小屋が増え始めた。

 河原は最底辺の始まりの地でもあり、そして終りの地であるような気がする。歓楽街や行楽地周辺に住む人々や隅田川のテント村の人々が追い出されるような事があったら確実に多くの人々は近くの河川に居を移すことであろう。それだけの遊休地は都内の河原には余るほどある。

3、路地裏編
 東京はかつては水の都であった。小名木川、神田川、横十間川などの河川運河が、水路のネットワークを結ぶ都市として東京は栄えてきたのである。水辺の空間はこの都市の美観でもあった。もちろん逆にこの都市の下層にとっても生活の糧がころがる河川運河は貴い場所でもあり、生活上の一拠点であったことは言うまでもない。 が、戦後、焼け跡のガラの処分地として河川が選ばれ、三十間堀川、東堀留川など、数多くの河川が埋め立てられ、水辺の街は埋め立てられた幹線道路とその跡地に建てられた首都高速が走り抜ける、味けのない街へと変身する。

 臭風の漂う汚いドブ川の中にある、古ぼけたビル、人々の雑踏とネオンがまばゆい怪しげな盛り場。これぞ場末と言えるような場所は東京には少なくなった。なんとなしにそんな雰囲気をまだ残している街は、東京区部では蒲田南口の一角と神田駅南口近辺、五反田南口近辺くらいだろうか。大宮など地方都市にいけばまだまだそんな雰囲気の街はあるようだが。

 場末の路地裏。我らが底辺には格好の住家である。そのまた絶好の地は高架下などの雨梅雨しのげる地。

 代表格は神田駅近辺の高架下であろうか。この地はリヤカーでダンボールを拾い集める伝統的な下層の職業が盛んな地で、秋葉原よりには、そのような人々がリヤカーと共に、あるいは、リヤカーを改造した寝ぐらで一夜をあかす。同業者は百人くらいいるとは、一人のリヤカー引きのおっちゃんの話し。が、古紙回収業は取引単価が暴落、なんとキロ3円にまで落ちてしまったらしい。この業界はかなりピンチである。

 神田の繁華街の近くの高架下には、古紙業界とは別の人々が場末の表現にピッタリの高架下で生活をしている。一件古物屋かと思われるよう、大きな冷蔵庫まで道路の上に荷物入れとして置かれていた。自炊道具も道の上に広げ、天下の公道を自由気ままに使う勝手な楽しさがある。何も仕切りをする必要がないのだろう。場末の空間は俺たちのものという自己主張が、江戸っ子気っ風でさわやかである。

 繁華街や歓楽街の近くにこれらの人々が何故集まるのかと言えば、食いブチがそういう場所には確実にあるからに他ならない。人はすぐ残飯漁りを想像するかも知れないが、それは最後に残された手段。

 盛り場は下層の宝庫であったし、今もそうである。都市雑業と言うとなんだか素っ気ないが、用はサービス業の末端の生業がここにはあるからである。昔は芸人や露天売り、売春というのが下層の生きる手段。今はかなり分化しているといっても、露天売りやその手伝い、風俗店のチラシ配り、チラシ貼り、カンバン持ち、飲食店、パチンコ屋などの下働きや、はてまてポン引きなどなどと、れっきとした下層の職業はここにはかなり存在する。テレカ集めや古本集めも繁華街ならではの近年の生業。もちろんあぶない橋は幾度も渡らなければならないから、常に身の危険をかかえながらの生業である。こういう訳ありな人を集めてきたエネルギーとやらが、夜の盛り場の活力であり、決して今のホームレスもこの構成員でないはずはない。景気がよければ寮完備の所も景気が悪ければ住む場所なしになるだけである。末端というのはもともとそういう世界である。

 けれど場末の近くにある遊休地は年々少なくなって来た。てな訳で、ここをホームグランドにしている人々はちょっと離れた場所に居所を構える。高速道路の下というのはたいていかつての河川沿いにあったり、運河の上を走ってたりする。江戸橋ジャンクションを中心とする首都高1号線、6号線、環状線の下には必ずといっていいほど小屋があるのは楽しいかぎりである。

 上野、浅草、池袋、新宿、渋谷、五反田、神田、銀座、錦糸町、蒲田など都内有数の繁華街、歓楽街を有する地域には、これは間違いがなく、その近くに多くの下層の民が住んでいるのである。健全な街には当然ながらこれらの人々は不要となり、どちらかと言えば青少年に影響のある不健全な街ならではの現象ということになる。もちろん環境浄化などと力んでみても、テレクラとか性感ヘルスであるとかの風俗店がどこにでもあり、そんな広告が載った新聞や雑誌が平気で売られている限り、あまり意味のないことだろう。生きていけるほどの生業がそこにある限り、繁華街、歓楽街の周辺に都市下層は集うからである。

 残飯漁りという最後の手段もこういう街には数多く残されている。また地味屋という酔っ払いが落とした小金を拾い集める職業もあり、また偶然に財布を拾うなどという僥倖もこういう街にはある。人が多く集まる所には、それなりのおこぼれがある訳で、河原などに比べ居住空間の悪い路地裏でも、生きるための可能性を当てにしながら最下層の人々は暮らして行くのである。

 「好きでハンバーグばかり食ってる訳じゃないよ」

 とは、銀座でふと声をかけたおっちゃんの談。

 が、そう言いながらも食わなければ人は行けない。そんな切羽つまった生き様がギラギラとした瞳と共に路地裏には常にある。

4、寄せ場編

 寄せ場というのは港湾荷役や建築・土木の単純労働の日々の仕事を求めて集う人々が集まる場所の事である。早朝手配師が、路上や公園で立ちん坊をしている人々の中から顔見知りや体力のありそうな労務者を選び、一日仕事を斡旋する。日雇職安でも同じことをやっているのでたいがいの寄せ場は日雇職安のある場所で栄えてきたが、今はもう落日の極みで、区部でまともに機能しているのは、台東、荒川区の山谷地域と新宿区の高田馬場地域くらいである。

 日雇労働の業界は下層で体力に自信のある者なら一度は経験したことがある程、訳ありの人でも使ってくれ、わりと金になる、ある意味で生活するにてっとり早い方法であった。落ちぶれた女性がホステスになるのとまあ似ているかも知れない。つまり下層の代表格の仕事という訳だ。

 そして、この不況の中、それだけにホームレスを排出する拠点ともなっているのが何を隠そう寄せ場であり、日雇労働の業界である。

 無論、我が最下層には寄せ場経験者は多い。が、けれども地域としての寄せ場問題の延長にホームレス問題があるという訳ではなく、社会構造としての寄せ場問題(つまり、下層の主要な受け皿と化して来た建築単純日雇労働)がホームレス問題の中に大きく含まれていると言った方が正確であろう。ウエイトは高い、がそれが全てではないという事である。その業界が生きるに値しなければ、生きるために他の業界に移るというのが下層の習わしであり、特殊建築日雇だけが問題ではなく、逆にそれだけで括ってしまうと下層に対して狭い見方しか出来なくなってしまう。

 前書きがかなり長くなってしまったが、いずれにせよ、この業界は空前の建設不況の中、非常に厳しい。

 高田馬場寄せ場の近くにある戸山公園のテント定住者や周辺での流動層のほとんどは、寄せ場での労働にその生活の糧を頼って来た。下層にとって戸山公園の位置的な価値はそれだけであり、上野公園や浅草公園と違い他の食いブチはここにはない。

 「先月までサウナで泊まってたんだけれど」

 という三十代のこの業界では金の卵のような若者がしょぼくれてベンチに座り込み朝をじっと待っている姿が、四月からめだち始めた。

 「ここで仕事の話しはタブー、みんな苛立ってるから刺激するな」

 とは古くからつきあいのある戸山公園の友人の談。どうも異常に沈鬱な空気がこの公園にはここの所、漂っている。そもそも景気の良かった頃には、皆寄せ場の労働者は百人町のドヤやサウナで寝泊まりしていた。それがバブル崩壊と共に不安定さを増し、テントハウス暮らしが多くなり、そして、仕事もほとんど途絶えつつある。沈鬱になるなというのが無理な話しだ。

 山谷の人々も地域の中にある、いろは商店街で仕事バックを枕にして並んでゴロ寝。深夜静かなこの商店街を歩くと、靴音に薄目を開ける人が幾人もいるのに気が付く。眠っているようで眠れない、辛うじて体を休めているだけの長い夜がここにはある。

 この地域も以前に比べ住みづらくなった。公園や商店街では地域の住民から格好の排斥の対象となる。ドヤ街と一般の人々の住居が混在しているのが山谷の特徴で、そのせいもあって、地域内で野宿する人々が、次第に隅田川沿いに追い出されるような格好になっている。夜の隅田公園には、そんな労務者の姿がベンチの上にいくつもある。夏場はまだいいが、仕事を探して歩きまわる人々にとって冬場はまさに地獄である。

5、行楽地編
 江戸の行楽地と言えば隅田川、ここは今でも雷門、浅草寺とあわせた東京随一の観光名所である。観光バスが次に行くのは、上野公園、西郷さんや動物園。お次は東京タワー・芝公園、そして西の新宿新都庁と言ったところか。最近はお台場であるとか、レインボーブリッジであるとか観光名所も増えたようだが、管理された新興地はともかく伝統的な行楽地には、必ずホームレスがいるのも、この世界ならではの事。他に神宮外苑、明治神宮・代々木公園、小石川後楽園と来れば、これは間違いなくホームレスの居住スポットである。

 かつての下層は人が集まる場所で乞食をした。これが唯一の生きる手段であれば、行楽地を選ぶのは至極当然のことである。歓楽街・繁華街は欲望うずまく闇の世界なら、行楽地は和気あいあい家族の世界。ギスギスとした日常から離れ、心うきうきの小市民から同情を誘うには格好の舞台である。もちろん乞食というのは立派な職業で哀れみを誘う技術が必要だ。大道芸人の世界にも通じるものがあったであろう。もちろん見せ物なども、ここにはつきもの、そして、寅さんじゃないが怪しげな露天商もまた、ここは商売時。と、下層の稼ぎ時は昼間の行楽地でもあった。

 そんな伝統なのか、今は露天などの手伝いや、ダフ屋の手伝い、チケットの並びなどくらいしか行楽地での生業は減ったと言っても、やはり、行楽地はそれ相応の人々を養っている。もちろん行楽客が残す大量の飲食物は魅力であり、それ目当ての者も多くなった。

 とりわけ花見シーズンはかきいれ時だ。上野公園の花見に顔を出せば、ボンボリの下ではなくちょっと明りが届きにくい道端の片隅で宴会を開いている人々の姿を見かける。花見客の飲み残し、食い残しは後片付けの代金としてもらえるから、我らの友人達も飲めや歌えやの大宴会が開ける訳である。もっとも一般の花見客も道端に座ろうが、寝転ぼうが、この日だけは合法占拠、みんなホームレスになったようなもので、普段はホームレスを蔑む人々も「まあまあおっちゃん一杯飲みなよ、あんたらも大変だのう」と変な一体感が生まれている。

 この時期は花見の場所取りのアルバイトもあるし、もちろん残ったブルーシートは、小屋の材料、

 「花見が毎日あれば最高よ」

 と、四月上旬は至れり尽くせりの日々である。

 代々木公園、日比谷公園、明治公園などは、大きな集会場や野外ステージがある関係、花見とまではいかないまでも、それなりの収穫物は結構あるらしい。代々木公園のメーデーなんかはテント村の住民にとっても年に一度の祭典。東京ドームや神宮球場などは好カードのチケット並びやダフ屋の手伝いがあり野球シーズンはそれなりに潤う。並びと言えば国技館も有名だけれども、こちらは国技だけあって警備がうるさいのか、隅田川沿いに追いやられてはいる。東京ドームもつい最近締め出しがあったようで地下鉄の駅や近くの公園に移住していた。 上野公園などは、かつては「日曜など公園から一歩も出なくとも生活出来る」と言われていたが、最近はテント居住者が急増して、そうはいかないようだが、ここは幸いに近くに繁華街、歓楽街はあり、山谷にも近いはと絶好の位置である。このように、生業の拠点が複合的に重なりあった場所にはかなりの数の居住者が集まることになる。代々木公園もまた、新宿の繁華街や渋谷の繁華街の中間に位置するし、隅田公園、日比谷公園、芝公園もまた同じような位置関係である。

6、駅、公園、商店街編

 場末の居住者があふれかえってしまったのが、駅や公園で野宿する人々の列である。それだけに、この人々は否応なく目につく。本来、目につかない場所を選びそこに寝泊まりするのがこの世界の常識なれば、この現代的ホームレスの特徴は、最下層がやたらに膨脹している傾向であろう。

 駅、公園は、繁華街、歓楽街、行楽地が近い駅、寄せ場が近いターミナル駅やその近くの公園が自然と選ばれる。住宅地の中の公園や駅には、あまりホームレスはいないものである。この問題では何かと市民的な危機感がある人もいるかもしれないが、今のところ整然とした高級住宅地の中にホームレスが群れをなして居住する心配はほとんどない。ホームレスと地域で同居したくない人は高級住宅地に引っ越せば安心である。

 それはさておき、駅とその周辺公園での都内最大居住地域は、上野駅・上野公園・御徒町駅界隈が随一、続いて浅草駅・隅田公園エリア、西ではダンボール村がなくなってもやはり新宿駅界隈が依然として大きな居住地域を誇る。

駅構内に限定してしまえば、これは近年かなり減ってきた。目立つ所には締め出しがまた厳しい。更に冬場や雨の時はともかく夏場は駅構内より快適な周辺のビル街や公園の方が過ごしやすい。

 深夜や早朝、駅構内の地下通路などでゴロ寝が出来る場所としては新宿駅西口が最大規模、続いて東京駅、地下鉄の銀座地下通路、浅草地下商店街くらいなものか。ここら辺は時間帯勝負であり、夜、足並が少なくなる頃から最終電車まで、朝は始発からラッシュ時までが睡眠の時間である。唯一新宿駅西口は夜十一時から早朝まで通しで寝られる場所であり、そんな関係でここはかなりの人数を有する。人が増えればどこでも同じだが、一定の秩序を保つのがやっかいである。

 「新参者が増えた」

 「うるさくって一睡も眠れやしない」

 などとボヤキが入るのはいつもこんな場所である。夜間、人目のつかぬ場所で、この世界の出入り自由な疑似シェルターが自然と形成されるのは昔から新宿駅西口の特徴でもある。ダンボール村が幸か不幸かあまりにも有名になりすぎたため、これらの人々はここではいつも見落とされ続けてきた。最下層の漂白の経過点として西口地下はいまもある。

 東京駅もまた見落とされがちな地域である。ここはビジネス街だけあって、夜の通行量は極端に少ない。そんな合間をぬって地下の階段などで睡眠を貪る。ゴーストタウンはトラブルが少なく居心地はいい。山手線で馬場と山谷の中間点ともなっているから、日雇を主とした人々もねぐらとしてこの地を選ぶ者も多い。

 上野駅は今も昔も東の玄関、ここは駅舎内はそう多くはないが、駅周辺という限定では相当の数の人々が暮らす。駅前のシャレた歩道橋の上や下、シャッターが降りた駅の周辺、地下鉄の出入り口、ダンボールハウスやごろ寝スタイルの人々が群れをなしてという表現がピッタリなほど多く集まる。中央口前の電話ボックスの中などは絶好の個室ブース、冬場は大いに暖が取れる。

 池袋駅などは、周辺に大きな公園が少ないため、深夜の駅周辺集中型である。十一時頃から駅周辺の地下階段のシャッターが降りると、次々と階段下に寝ぐらを作る人々が増える。階段の底部に寝ぐらを作るからのぞき込まない限り人々の目から触れることはない。西口駅前にある芸術劇場の周辺はダンボールで囲まれ、駅ビルの周辺にも寝ぐらが作られる。

 公園のベンチには、流動しながら仕事を探す人々にとっては格好の休息場。最近はどこの公園もベンチに無粋な細工をほどこして横になれないようにしているが、そこは知恵くらべの世界。いろんな工夫や格好をしてベンチで横になる。夜の公園はアベックとホームレスの独壇場、若い男女が抱き合っている隣のベンチにはおっちゃんが鼾をかいて寝ていたりして、いずれにしても人から見られない暗闇は人々の本性をくすぐるのか。あおかんという隠語はこのような世界で共通点を見いだす。

 都立公園でのテントなどでの定住者は一時期に比べかなり増えた。居住への強い欲求は公園でもそうやって表現されている。上野、戸山、代々木公園は都内の三大居住区になりつつあり、ここまで増えてしまったらちょっとやそっとでは動き得ないだろうと思われるほど。とりわけ上野公園はすさまじい。公園内の工事の関係上数ヵ所に追いやられているだけ密集度は随一である。見渡す限りテント、テント、ちょっとした村落の光景である。公園のテント村というのは、そもそも閉鎖感があって近寄り難いのではあるが、これだけ密集してしまうと尚更表からは声をかけずらい。

 この季節、やはり公園はベンチでごろ寝の方がよく似合う。
 商店街での居住は普通は難しい。都内を見回しても夜間は誰もいないような近代化されたビル街の商店街ならともかく、普通の街中にあるような商店街での野宿地はごくごく限られてしまう。

 けれど浅草だけは例外。新仲見世通り、西参道の商店街には切れ目がないくらい並んで寝ている。ここは昔から商店街の野宿者追放運動が盛んなのであるが、その地区にしてこうである。

 「うるさいけどさ、他に寝る場所ないじゃないの」

 久し振りにあった浅草野宿のベテランのおっちゃんはにんまりと笑う。

 観光名所ならではの昔から変わらぬ光景であった。


7、概数を試算すれば、
 純粋に数だけ数える作業は苦痛である。調査員みたいな格好をして画板をもって夜な夜な一人で歩いていれば、当然怪しまれ、白い視線に突き当たる。

 それにどうしても途中で知り合いにあったりすれば立ち止まり、しゃがみ込んで世間話。その間に数など失念してしまう。どうしても声をかけてみたくなるような人というのはいるもので、視線があったらさすがに無視する訳にもいかない。
 そんな訳だから、今回の東京めぐりは調査の体をなしていない。そして、もちろん東京の街をくまなく回った訳ではなく、これまでの経験と勘をもとにして集住者が多いと思われた地域を限定してまわったに過ぎない。都心部以外でも、八王子や立川など、中央線の西の方や、葛飾方面にもそれ相応人はいるであろうが、気になっていて行けなかった地域もかなりある。

 そんな事を勘案してもらってだが、今回の小旅行で出会った人々の数は四千三百二十八名である。一斉調査でないので重複も多少あると思うが、歩行中の人々の数は省き、純粋に小屋、寝ている人の数なので、複数寝ぐらがある人以外は重複は避けられたと思う。

 この数値から考え、そして、今回訪問できなかった地域を概算してプラスすれば区部において野宿をする人の概数は五千名程度ではないかと推定できる。

 ちなみに東京都が毎年実施している概数調査は今年二月段階で三千百八十一名である。もっとも役所の調査を「ずさん」であると批判しても仕様がない。これは役所の手法で数えた数値でありそれ以外の何者でもない。実態を反映しているかと言えばある意味では反映しているし、ある意味では反映していない、そんな数値である。そもそもこの世界に住む人々の実数を正確に調査するなんて不可能なことであり、季節や時間帯によってもかなりの差がでる。テントなど定住型の人々だけならともかく、そもそもがアンダーグランドな世界だけに日々刻々と野宿地などは変り得るからである。実数というのは可能な限り調べるということでの概数しか出ない訳だ。

 支援団体の中には、都の調査を批判し、狭い一地域の独自調査結果をもとにして七千という数値、あと数年もすれば万を越えるという驚くべき推論を出している団体もあるが、都の調査を批判する暇があるくらいなら自分らで全都の独自調査をすればよい。そうすればもっと違う数が出てくるだろう。

 もっともホームレスの概念の差で数値はかなり食い違ってくる。欧米並のホームレス概念で積算すれば、それは今でも数万を越えるだろう。が、野宿という形態だけを対象にすれば、今日のこの時期、まあ5千というのが妥当なところではないだろうか。

 けれど5千というのは大変な数である。数年前、私もかかわった山谷労働者福祉会館・人民パトロール班が実施した全都調査の時の数値が2千である。やはり急増していると言って過言でないだろう。

 下層が下層として暮らして行けなくなった結果として最下層は間違いなく増加し続けている。「解体される戦後」の光景の中に我らが階層がいる限りこの傾向は続くであろう。

8、まとめれば、
 この世界はごった煮の世界である。どこの世界も基本的にそうなのかも知れないが、とりわけ、下層、最下層は訳ありで墜ちるところまで墜ちてしまった人々の寄せ集めの世界だけに、尚更、全ての矛盾が堆積する場所でもあり、味付けに困るほどのごった煮状態となる。

 ホームレスは実にしたたかだとはよく言われるが、悪くいえばずぶといとか、ずうずうしいとかいう意味でもある。もっともこの世界多少のずうずしさがなければやっていけない世界であり、そんなこの世界から要求される性格もあって、内輪での足の引っ張りあいなどはザラである。「福祉を取った奴は町中であっても挨拶もしない、知らない仲じゃないのに無視しやがるんだ」

 と言われたことが良くある。まだ野宿の人々は生活保護を取ったかつての旧友を羨み、生保を取った者はかつての過去を出来れば思いだしたくはない。

 墜ちるところまで墜ちた人々の心象風景は実に複雑である。後ろ髪を引かれるように仲間を見捨て野宿から脱する。墜ちるときは一人であり、そこから脱するときもまた一人だからである。けれど野宿にいる時は底辺の強い連帯感が足のひっぱりあいの中にも通底するようにあるのもまたこの世界ならではの事。

 この世界は一筋縄ではいかない深淵な世界である。決して働く意欲をもった層とそうでない層などという単純な二分法でばっさり切れるような世界ではない。学者や行政はそれで満足できるのだろうが、そんな単純な構図だったら誰も困らない。そもそも働く意欲なんて、誰が判定するのだろうか?そんな意欲なんてのはとってつけたようなもので、本来生きるためには、本集めだろうが、残飯拾いだろうが人々は働くのであり、現に我がホームレス達も日々働き続けている。

もちろん対策化の策定の中でこういう分析は必要なのであろうし、現行の自立支援事業を全面的に否定するつもりはない。対策は必要な人々には現に必要なのであり、生活保護にせよ、自立支援事業なり、それを活用しながら生きて行こうと思う人々がいる限り、それを行政が出し惜しみすることは誤っているし、行政がやることだからと対策をなんでも否定することは間違っている。
 けれど、これで全ての問題の解決が計れる程、この世界は単純な世界ではないという事を最後に言いたいのである。

例えば女衒を生業としている人に、まともな月給取りになりなさいと言って何になろう。女衒はそれを長年やっている人々にとっては「まとも」な職業なのであり、「まとも」だと思っている人々に世間の理性や常識の尺度はおうおうにして通用しない。
 対策を求めることは居住への希求などその要求がある限り必要である。けれど、行政施策だ、差別だ、人権だとか小難しいことを考える前に、東京の街中には現に下層の民が多く生活しており、中には最下層へと落ちぶれる人々もまた多く居、それらの人々は決して人生を諦めている訳でなく、一生懸命我々と同様、様々な生業をしながら生き抜いているんだということを当たり前のように認めることの方が先決なのではないだろうか。

 東京の下層はそうやって生き抜いてきたし、これからもおそらくそうやって生き抜いて行く。
 ただ、我々が長らく見ようとしなかっただけである。

(了)

(1998年12月「世界」掲載「ホームレスを訪ねて歩く」校正前原稿)