東京における自立支援センターの展望と課題


笠井和明

 東京における自立支援センターは、構想(抗争?)4年目にして本年11月、ようやく台東寮、新宿寮と2か所の設置と相成った。まさに長き長き道程であった。
 新宿連絡会は東京都および23区の「路上生活者対策」、なかんずくその柱である自立支援事業構想とのおつきあいが最も長く、かつて猛反対もし、はたまた猛賛成もしと、つまり、その攻防の直中にいた団体として、この事業の本格開始に当たっての感慨はすこぶる深いものがある。ここではその経緯をかいつまんで披瀝すると同時に、今後の事業の展望と課題も含めて示唆して行きたい。なお本稿は連絡会の公式見解ではなく新宿連絡会の活動屋・笠井個人の見解であることを最初にお断りしておきたい。

 東京都と23区の行政間では「路上生活者対策」という施策の枠組みが既に94年2月「路上生活者問題に関する都区検討会」発足時から確定している。もちろんこれは福祉分野のみではなく、労働、福祉、医療、住宅などのセクションも含めた「総合的な対策」としてある。都区検討会は94年9月福祉対策を中心とする緊急対策と中長期対策をまとめ、冬期臨時宿泊事業の開始、更生施設の増設などを先行的に都区共同体制で実施、そして長期的な路上生活者対策の方向性を盛り込んだ「路上生活者対策報告書」を96年7月に発表するに至った。この報告書は玉虫色の性格を孕みながらも、今後の「路上生活者対策」の基本方向性を1.行政は路上生活者の自立を支援、援助する2.多面的、総合的な対策を行う3.行政の限界を社会福祉法人や公益団体の協力で補う4.路上生活者の人格を尊重することを普及、啓発する5.他都市や国と連携、協力していくの5点でまとめている。昨今国の「ホームレス問題についての当面の対応策」に対する議論が数々なされているが、それに先立つ3年前、国の「対応策」よりもよほど「立派」な対策体系を出していた事は残念ながらおうおうにして忘れさられている。ある意味ではこれは行政サイドの先駆的な業績とも言えよう。もちろん、この96年「報告書」の内実を規定したものこそ、94年から開始された新宿闘争(主要には強制的な排除では何も解決しないという社会的なアピール)と東京圏における(当時は山谷、新宿をニ大拠点とする)反失業闘争の前進があった事は言うまでもない。路上生活者対策に対する対策観点を建設行政主導から福祉行政主導へと転換させる契機は、新宿、台東など各福祉事務所への鋭い緊張感をもったたたかいが導いた結果である。そして、そこには福祉行政関係者や自治労など行政内部における様々な人々の努力があった事も正当に評価しなければならないだろう。そういう時代になったと言えばそれまでであるが、私達が声をあげなければ所詮、野宿者は治安対策の対象としか考えられず、良心的な声は強権によって踏みにじられ、かつ福祉施策は相変わらず「上」から押し付けられる「福祉」にしかならなかったであろう事は、この国の貧民対策の歴史を紐解けば明らかである。
 野宿当事者が声を出し、また「不法占拠」状態を基盤としながら、無言、有言の意思表明の中から導き出させ、そして確定させた「路上生活者対策」をどう具体的に実施させるかという攻防が96年以降の東京においては課題となる筈であった。が、とりわけ新宿闘争は96年1月の強制排除の衝撃を目の当たりに受けていた関係上、いくら都区が良い言葉を並べてみても、そううかつには信じられないというのが率直な心情であり雰囲気であった。それに規定され、以降、強制排除事件の総括作業が裁判闘争のみならず、現場闘争的にもたたかわれる事となり、自立支援センター設置反対という旗印を新宿連絡会は掲げた。この当時、とりわけ東京都との関係は最悪な状態であり、新宿駅西口地下広場(96年1.24の産物-退去先)では一触即発の事態が続いていた。再度の強制排除を準備するための「対策-受け皿」として自立支援センターを私達は考えていたのである。確かに「報告書」においては、その末尾に苦情の多い地域にたいする優先的な対策が容認されるという文言もあり、東京都などは建設局を中心にそれを拠り所としながら新宿西口対策としての「暫定自立支援センター」を構想していた節もある。この攻防、つまり、97年春から秋にかけての「退去勧告阻止、センター設置反対運動」は今の地平から見れば、双方の誤解を解き利害調整するためのたたかいでもあった。この現場闘争が不毛では決してなかった事は、本年新宿区に設置された本格自立支援センター新宿寮が上野の台東寮のように排除の受け皿として決して考えられていないし悪用もされていない事からも明らかであろう。施設が良い施設となるか悪い施設となるかは、その施設を利用しようとする当事者の運動が決定するという教訓からしても、私達の「反対運動」はその施設を悪用しようとする人々の出鼻を挫き、悪用させない力関係を作ったとも言えよう。確かに当時の自立支援事業プログラムは芝浦寮の総括もあり細部はともかく基本的には最良のプログラムであった(出口の住宅問題まで考えられていた点など)。しかし、事業内容に目を奪われず、その事業がどのような基本的な観点で行われようとしているのかの一点に私達はこだわった。そして、だからこそ、97年秋、東京都福祉局が新宿連絡会との話し合いのテーブルをようやく作り、1.24事件を非公式ながら謝罪し、「センターを排除の受け皿にしない」と表明した時点において、私達のセンターに対する態度は転換した。表層だけを見る人々は反対から賛成への転換に戸惑いをもったようだが、私達の運動は反対のためだけの運動をするほど余裕はない。97年10月13日の時点でセンターをどのように仲間が活用し易くするのか、また運動がセンターをどのように位置付けるのかというレベル、つまり「路上生活者対策」という施策の推進を支持し、それをもとに新たな要望を積み上げて行くという立場にようやく運動の側も乗った訳である。
 98年2.7火災と2.14自主退去方針は、不幸中の幸いにしてその流れの中の出来事であったからこそ、新たな悲劇を重ねずに済んだ。この事への批評は今でも様々あるようだが、これまた表層だけの出来事ではなかったのである。運動の下らない面子よりも対策の前進の方を選んだのであり、具体的に言えば西口からの退去先を自立支援センターへと積極的にしていったのである。
 当時私達が思い描いた戦略は、被災者の保護から暫定自立支援センターへの入所、そして地域限定暫定センターではなく、全都の仲間が利用できる本格センターへのそこからの移行というものであった。が、確かに暫定センターは北新宿寮とさくら寮に出来、被災者の多くはそこを利用する結果となったが、98年春に急遽こしらえた全都野宿労働者統一行動実行委員会(全都実)は、本格センターを早期に手繰り寄せる事に失敗し、ずるずると開設が遅れるという事態を招いた。
 他方で暫定センター内においては、97年秋から入所した者も合流し、寮内改善、事業内容改善の取り組みを粘り強く行い、行政のレベルでは気がつかない細々とした事柄(例えば寮長の飲酒退寮権限問題、門限問題、日雇、アルバイト問題など)を要求として突き出し、東京都と団体交渉を続け、数々の成果をあげながら使い易い事業に変えて行くことには成功をして来た。当時の入所期間は原則無期限(自立するまで)であっただけに、事業内容に関する改善を腰を据えて出来たし、行政サイドもまたこの攻防の経験は「自立支援センター(暫定)の実施結果について」(1999年1月)という報告書にまとめあげられ、今次の本格センター実施の土台となっている。入所した仲間全てがうまく行った訳でもなく、就労自立率も34.7%と低いものであったが、暫定実施における仲間の寮内闘争の経験は、この事業を使い易いように変えていくためにも重要な位置を占めていた。すなわち「排除の受け皿でない」事を確認するだけでは、駄目なのである。このレベルを超えたら、仲間の手によって単なる収容所にさせない運動、すなわち事業内容ととことんつきあい、仲間が納得のいくような事業に変えていかなければ意味がないのである。生活保護などもそうなのであるが、おうおうにして権利をまず最初に獲得することに主眼がおかれ、その後の当人は行政の意のままにされてしまうというケースは後を経たない。そうなると福祉施設や病院を行ったり来たりという余りよろしくない主体を作りかねない。アフターホローを行政に全面的に任せているからこうなるのであり、そこまで責任を運動サイドがもたない限り、本当の権利などは獲得できたとは言えない。運動が現に野宿している者しか見ていないからこうなるのである。つまり、私達の発想が貧弱な結果である。その点を突破する試みはセンター問題において新宿においては突破している。私達の思惑通りに本格センターが出来なかった誤算はあるものの、本格センターを積極的に利用しようという具体性は既に獲得しているのである。

 98年の2・7火災と2・14自主退去は「排除反対」を掲げ続けて来た私達の運動上における最大の危機でもありかつ、転機であった。ある意味ではそれまで評価をあいまいにしていた「路上生活者対策」を極限的に直視せざるを得なくなり、また96年1・24の大闘争の遺産を食いつぶし、西口地下広場に軸足を取られていた主体の転機を計る必要があったからである。
 運動の排除反対の質から「対策」推進、拡充への運動の質的な転換は、全都実結成と全都工作の着手から23区対策としての本格センター設置を求めるスローガンと大衆行動へと結実化し、また政策面の評価と課題は「路上からの提言」(1999年版)としてまとめあげられ、また、寮内闘争、また生保層の組織化などの展開の中で野宿者限定の運動の質を総括して行き、本年も貧民連構想と国会闘争の着手、そして「ホームレス問題に関する政策提言」(2000年版)の提起として表現されている。もちろん、その過程でかつてコミュニティとして表現してきたような共同体の質を発展させていく作業などを整合的に十分行ない切れなかった面もあり、その点における運動のゆとりや豊かさをそぎ落として行った事は総括点でもある。
 暫定センターから本格開設へと「走り続けた」新宿は、その猛然さ故に異端であり、「孤独なランナー」として映ったかも知れない。気がつけば全都実も、東京の各運動体も不均等発展のままである。これが本格センター開設要求を掲げながらも、その実現に2年もの月日を重ねた誤算の大きな要因としてある。

 「路上生活者対策」を野宿の仲間が路上から脱せられる機会として利用し、発展させて行く中で、ゆくゆくは、野宿者「対策」の質ではなく、都市貧民に対する「政策」の質まで要求を引き上げて行く事。この行政闘争の戦略の中に自立支援センターを位置付けて行く限り、それがたとえどんな自立支援センターであったとしても悲観する事はないだろう。行政もまた新たな事業に踏み出した以上、私達もまた新たな段階へと運動の質を転換せざるを得ないだけの話しである。そして、自立支援センターが全ての特効薬ではないという点だけ、行政や社会に認めさせる事だけが重要な点である。
 東京の自立支援センターの決定的な欠点は、雇用対策が不備な点だけである。就労支援の体制があるのはもちろん当たり前だが、本人の努力によってしても就職が決まらなかった人々の問題には何等解答を示していない。この点の入所する際の不安は、如実に今回の入所希望者の列にも現れている。新宿15名の枠に66名、渋谷7名枠に29名、豊島5名枠に15名、台東20枠に31名と、このように希望者が相対的に少ないのは、雇用対策の不備を野宿者に見透かされたからに他ならないだろう。この点はすでに福祉局内部では議論されており、労働経済局が今後どのような参画をしてくるのかが注目点である。行政もまた作ったはいいが入所希望者が少なければ意味はなく、いかに魅力ある事業内容にするのかが問われてくるであろう。また、この事業を野宿者に宣伝する手段をもたない行政は、自ずから支援団体などに協力要請しなければならなくなる。事実、今回の事業に関しても私達は東京都福祉局との「説明会」を開催する事を条件に、新宿区内の仲間への告知は新宿連絡会が新宿福祉と協議をし、それを行なった。もちろん受付、抽選、面接、選考過程全て私達の監視が入り、恣意的な判断による選別や排除は排して来た。運動が自立支援センターの開設を求めて来たという事はこういう事も含めて、私達が責任を持つという事であり、今後、入所者への面会交流などを通じた細部にわたる改善要求などを積み重ね、また、行政が出来ない、たとえば保証人問題のような面もまた、要求すると同時に私達の手で行なわなければならないのである。もちろん、行政との緊張感抜きにこれらの事を行なえば、安上がりの下請けに成り下がってしまうが、全体の戦略と要求をもって立ち向かい、大衆闘争基盤を維持していけるのならば、仲間の具体的な信頼は運動体の側に向いてくるだろうし、そのことこそが重要であると考える。

 誰かに足を引っ張られなければ立ち止まらない新宿は、だからこそ、また再び走り出すことであろう。

2000年12月季刊「Shelter-Less」