2004年 TOKYO路上感
ー収容からの卒業ー

笠井和明(新宿連絡会)

 連休中のつかの間の休みの日、お台場まで散策に出かけた。
 今や東京中で純粋の観光地(ハレの都市空間)と云えるのはこの辺りしかないと何度か通いつめているうちにそう思い、暇を見てはよく足を運ぶ。当たり前の事ながら生活の歴史が染みつくと街は知らずと変わっていく。東京の内陸部ともなると、ちと生活史の怨念が渦巻いてあまりもう落ち着かなくなってしまった。
 お台場の隠れた名所に第三台場の台場公園と云う歴史の残骸のような場所がある。すり鉢状の四角の公園には海風に耐え抜いた松の木がちょっと傾きながらもどっしりとかつての要塞を守り抜いている。国防の要の荒々しさは今も静けさと共に微かに感じられる。
 この海がこのとてつもない都会を作り、この国の歴史も作って来た、なんて感じているお台場フリークは若者や家族連れでごった返すこの場所では明らかに少数意見だろう。
 ポッとした江戸の歴史が、ポッとした現代の埋め立て技術によって融合してしまったが故に、真ん中の歴史感がまるでない世にも珍しいおかしな場所である。

 2004年初夏。東京の路上の世界からしておそらく画期的な出来事が始まろうとしている、その前夜どこで遊びほうけているのかと叱られそうだが、この地のように抜け落ちた貧民史の歴史を埋める空想の作業も今必要な事なのかも知れない。


 話は変わるが、3月、ようやくにして東京における自立支援センター5か所目の渋谷寮が渋谷区千駄ケ谷に開設された。1996年7月「路上生活者問題に関する都区検討会報告書」にして「自立支援センター(仮称)は都区共同で設置し、23区の地域バランスに十分配慮しながら、おおむね5か所を目標に、順次設置していく。」と報告され、8月に「自立支援センター調整会議」により議論が具体的にスタートした地点から、何と7年8ヶ月目にしての「目標達成」。もはやこうなると感慨深いを通り越して口をあんぐりと開けるしかない。
 もちろん自立支援センターと一言でいっても、今日の姿に至るまでには新宿の地での攻防があった。中でも就労自立を目的とする事業に関しては96年1月24日から3月22日まであだ花のように開設された臨時保護施設「芝浦寮」を端に発する。周知の通りこの施設は東京都建設局による新宿駅西口地下通路からの強引な追い出しの受け皿施設として開設された。多少の良心が残っていたのか、それとも世間の批判に耐えられないと判断したのか、今まで(94年2月の同様の追い出しの受け皿になった冬期臨時宿泊事業「なぎさ寮」2週間宿泊)のように単に無料で泊め、期限が来たら元の生活に戻ってもらうと云う冷酷なスタイルは採用されず、芝浦寮で初めて「福祉・労働・衛生・住宅など総合的対策」を採るとされた。
 しかし、都区が決定した自立支援センターは最初はとかく人気がなかった。それもその筈、彼らの発想は机上の論理であり、かつ施策は物事を糊塗するための道具でしかなかったからである。
 当初のボタンの掛け違いは今思えば至極単純な事である。総括めいた言葉がどこかあるかと部屋中探してみてようやく見つけた。『現在都区共同で計画されており、連絡会もその後の様々な経緯から強く全都での設置を要望している「自立支援センター」も、そのプログラム内容はともかくとして、野宿者の意思を無視した強制排除の受け皿となるのであれば当然これに反対する。問題は「箱もの」ではなく、その決定のプロセスに当事者の意思や希望が反映されているのか、それが押しつけではなく、当事者の野宿から脱したいと願う強い意思と合致し、権利主体として認められ、権利行使としてその施策に参加できるのか、という問題だからである。もちろん、警察力やガードマンを使って力づくなどというのは問題外で、いくら野宿よりマシという対策を並べてみても、当事者がそれにNOと言うのならまさに絵に書いた餠である。強制排除というのは、野宿者の社会参加を疎外させるものであり、社会の外に野宿者を押しやる結果につながり、更に野宿状態を悪化させるものである。これを平気で望む住民や地方議員、そして何のためらいもなく実行する自治体が未だに存在するという事は、この国の「ホームレス対策」が他のどの国よりも遅れている証拠であり、それこそ国際的な恥だろう』(拙書「新宿ホームレス奮戦記」後書きより)
 つまり、今や当たり前の事だとは思うが、当時、そう云う事を都区は知らなかったのであり、学ぶ機会がなかったのである。
 治安や都市景観を全面に立てるのは今も昔も変わらぬ発想であるが、その際、対象者の人格や尊厳を無視したり軽視したりする傾向は近代貧民史の共通の手法であった。戦後東京都においては山谷対策史をひも解いて見ればこれは一目瞭然。城北福祉センターで実施している宿泊援護も、労働センターや玉姫職安で実施している特別就労も、アブレた労務者が暴動や犯罪を起こさぬよう手当てされて来た伝統的な施策であり、しかも今や労働力の再生産すらできないくらいにお粗末な施策な内容でしかない。ゴールデンウィーク対策と称した一週間程度の宿泊援護が毎年行われているが、バス券をもらい帰途に付く利用者と先日偶然バスが一緒になった。集団で乗車して来たものの、彼らは口を開かない。身なりはそこそこ奇麗になっているが、「明日からどうしよう」と云う戸惑いと不安が皺の多い暗い顔から痛いほど判る。彼らは「仕方がないから」当座の施策を利用するのである。残りの人生の夢や希望を持って施策には参加しないし、そういう構造にはこれらの施策は残念ながらなってはいない。利用者が真の意味で参画できる制度設計にはなってないならば、永遠の繰り返しであり、その稀なる歴史を積み重ねているのが山谷対策史とも云えるだろう。
 当初、路上生活者対策も山谷対策の延長、拡大として捉えられる傾向が強かった。元来地域特性以外は本質的に何等変わらないとは思うのだが、東京都の場合、幸か不幸か同じ福祉局内にありながら施策については別建てになり、お互い牽制しながらそれぞれ独自の歩みを歩んで行く。そして幸か不幸か、都庁の真下が主戦場になり世間の耳目を浴びた。しかも景気が低迷し続け、23区どころか三多摩地域にまで失業した野宿者が増加し、地域課題ではなく都政的な課題にまで引き上げられた。更におまけに自立、なかんずく就労自立の支援を義務化する法律まで出来てしまった。これらは偶然の重なりのように見えるが、全体からすればそれはそれで都市部における現代貧民史の発生と、当事者及び社会の対応として、新たな歴史を作り出しているのかも知れない。

 まあ、だからと言って7年8ヶ月が免罪になる訳ではないが