大田寮紀行〜2002年のTOKYO

笠井和明

 今年の2月から5月にかけて緊急一時保護センター・大田寮に足繁く通った。
 かつて「なぎさ寮」と呼ばれていただけあって東京湾を臨む倉庫街の一角にあるこの寮、新宿からは優に1時間半はかかる誠に交通の便が悪い処に構えてある。
 交通の便が悪いという事は、都会の喧騒からはほど遠い事を意味する。羽田空港が近く、また流通ターミナル基地も多いため車両の行き来だけは激しいものの、近くに民家は一軒もなく、繁華街らしきものも勿論ある訳ないので人通りというものがまるでない。天気の良い日などは都心では見られなくなったひろびろとした青空を眺められ、護岸の浪の音を聞きながら両手、両足を伸ばしてごろんと昼寝、浪の向こうには貨物船、青空からはジャンボ機がどこか見知らぬ国へと気持良さそに飛び立つ。

 実に羨ましい場所である。

 もちろん私が足繁く通った理由は、新宿の喧騒に嫌気がさしたのではなく、また活動家諸氏の陳腐な議論(お喋り)に疲れ独りになりたかったからでもない。緊急一時保護センター・大田寮の改善工作に赴くためである。
 緊急一時保護センター・大田寮は御存知な方は御存知であるとは思うが、昨年(2001年)12月に開設された東京都および特別区が実施主体の路上生活者対策施設である。都区の路上生活者対策施設と云えば自立支援センターを思い浮かべる方々も多いとは思うが、この自立支援センターとは性格の違う施設として(関連はもちろんしているが)緊急一時保護センターは開設された。
 東京都は昨年3月「ホームレス白書」の中で「自立への新たなシステムの構築」(いわゆるステップアップ方式による自立支援、社会復帰システム)を発表したが、その入り口(第一ステップ)施設として緊急一時保護センターは開設された。「ホームレス白書」の中で東京都は、これまでの路上生活者対策は「現状では、まだ十分な対策都はなっていません」と場当たり式の対策推進姿勢を自己批判し、「短期間で抜本的な解決は困難」「これまでの応急援護中心の対策から一歩進め、長期的、総合的対策へ転換していく」と宣言し、その具体的な施策第一号がこの大田寮という訳である。
 私たちは東京都の「ホームレス白書」による新たな路上生活者対策体系を歓迎し、緊急一時保護センターも早期設置を要求して来た。お手並み拝見という思いはありつつも、緊急一時保護センターをどのような施設にすべきかという提言(2001年7月27日「要望書」)も同時に提出し、その交渉なども行なって来た。これらの過程は主に新宿連絡会および池袋連絡会などが担って来た。自立支援センター設置要求運動では足並みを合わせて来た都内の他の団体は「緊急一時保護センター=シェルターは強制排除の受け皿」云々の頭の固い議論の中で、緊急一時保護センターをいかなる施設にしていくのかという建設的な発想と、それを仲間と共に実現していこうという運動的な興味を失ってしまったようである(これらの団体も含めて現在面会行動を行っているが仲間との「関係性」の延長として行なっているのみで、寮内改善を目的としていく方向性は残念ながら未だ共有化して戴けていない)。
 さて、そうこうしている内に緊急一時保護センターが300名の定員で、昨年12月に開設された。歴史的な経緯もあり、山谷対策室(現・課)が実質的に「保有」し続けて来た「なぎさ寮」を路上生活者対策が全面的に「奪い」取り、名称も「大田寮」とし、宿泊施設、管理棟などもすべて新装してのオープンであった。プレハブ施設ながら宿泊施設は2段ベッド(カーテン付き)、ロッカー付き、個人面談が圧迫感なくできるオープンスタイルの相談室も完備、もちろん、風呂、洗濯機、娯楽室、医務室なども完全装備。委託先は山谷対策や自立支援センターでの実績を誇る有憐協会、寮長もかつて暫定自立支援センター北新宿寮の寮長であったベテランNO1寮長を配置。開設時に食堂施設が未完成であるなど施設の整備が遅れていたが、それも今年の5月には改修工事はほぼ完了。いままでの施設ではない(全国初の)という都区の「意気込み」はあらゆる面から伺える施設であった。

 東京都および特別区の計画において緊急一時保護センターは、23区内に起居する路上生活者であるなら誰でも自己申請でもよりの福祉事務所から利用を申し込める施設であった。ただし、生活保護法に基づく生活保護に該当する者、長期間の入院等による治療の必要がある者、他者に伝染するおそれのある感染症等に罹患している者は利用対象者からは除かれている(路上生活者緊急一時保護事業実施細目)。つまり、生活保護に該当するものは、福祉事務所の本来業務の中で「処理」すべきと言う意味である。緊急一時保護センターの入所期間は原則1ヶ月、但し、処遇先が決まらない場合は2ヶ月までの延長が認められる。入所者は、「一時的な保護と心身の健康回復のための、宿所・食事・衣類等の提供、生活相談及び、指導、健康診断」を受けると共に「社会復帰に向けた意欲換気、能力向上のための支援とアセスメント(調査、評価)」(路上生活緊急一時保護事業実施要綱)を受け、そのアセスメント報告の結果、各福祉事務所がステップアップ先(自立支援センター、居宅保護など)への「処遇」が決められるというものであった。アセスメント調査ワーカーは東京社会福祉士会に委託。すなわちアセスメント調査ワーカーは社会福祉士の資格を持った人々で構成される事となっていた。
 この緊急一時保護センターの開設に伴い、自立支援センターへは原則として緊急一時保護センターを経由しなければ入寮できない事と「路上生活者自立支援事業実施要綱」も変更された。就労自立を希求する人々も一端は緊急一時保護センターに入寮し、アセスメントを受け、福祉事務所の処遇決定の後、最長4ヶ月の自立支援センターのプログラムに移行できるというシステムに変り、これが、いわゆるステップアップ方式という仕組である。
 つまり、都区は「大田寮に入って来た人々には心身を充分に休めてもらい、ゆったりとした環境の中これからの事を考えさせ、かつ十分な調査をし、社会復帰に向けた意欲や能力を向上させた後に、各々の自立へのステップアップ先の施設などに振り分ける。大田寮に入って来た人々を決して路上に戻さない」という理念と意気込みの元、この施設をオープンさせた(筈であるー少なくとも設計者および実務担当者レベルでは)。

 この大田寮、新宿、池袋など東京西部圏の路上生活者が集中している区では、仲間達に熱烈に歓迎された。新宿区の初回受付では28名の枠に119名が並び抽選を受けた。私たちの元には仲間から「他所の区はいつ受付なのか?」の問い合わせが殺到した。大田寮の開設時期は特別冬期臨時宿泊事業(2001年度は大田寮の開設に伴い前年度388名から138名に縮小された)と重なったものの、1月141名、2月109名、3月105名(いずれも新宿区の毎月の受付日に並び抽選を受けた数)と大田寮に圧倒的な支持が集まった(ちなみに4月106名、5月152名)。冬期臨時宿泊事業は2週間の宿泊のみの事業なので当然と云えば当然である。
 他方、東の集中区、台東区、墨田区などは初回はそれなりの応募があったものの、以降、募集枠を埋めるのが精一杯という状態が続いている。もちろん需要はそこそこがあるのでコンスタントに入寮させているのではあるが、23区内で野宿者数の一、二位を争うこの両区は山谷対策圏内の区であった関係上、路上生活者対策との関連性を自ら立てる事が出来ず(つまり地元の利益になる山谷対策の方を重視し、路上生活者対策の推進には及び腰という歴史的に作られた発想)、また下手に広く告知・勧誘すれば潜在的な就労自立希望者が多いだけに役所に入所希望者が殺到してパニックになるなどの危機感から、需要層を掘り起こすなどの努力などはせずに、できるだけ絞り込んで入寮させようという、いわば様子眺めの姿勢を取り続けている。
 その他の区はもっと悲惨で、とある区などは警官同行で告知して回り、勧誘の結果、入所を決定するという所もあり入寮者確保には苦戦を強いられていた。そして、その結果、入院患者の退院後の施設として利用したり、65歳以上の明らかに生活保護対象高齢者の人々を入寮させるなどの「裏技」を使って枠を埋める(分担金を支払っている以上、区議会で文句を云われない程度に実績は作っておくという事なのか?)という事態にも至った(今年4月までの利用状況では最高年齢78歳の方を筆頭に65-69歳までの方が50名、70歳以上の方が19名入所している)。
 大田寮の開設は、東西格差および、集中区とそうではない区の差(路上生活者対策および生活保護運用における各区的な位置づけなど)が歴然と現われてしまったとも云える。各区的位置づけの差やいわゆる温度差というものは自立支援センター開設の時(もっと遡れば都区検討会時分)から水面下においては続いている問題なのではあるものの、まあ、大田寮開設でついに「パンドラの箱を空けてしまった」ようなのである。
 つまり、需要の見えない区からはあまり見えないのであろうが、需要があり過ぎる区からの視点からすれば「何じゃこりゃ」という状態が大田寮開設後、明らかになってしまった。
 ここいらの問題は、大田寮という施設がどういう施設なのかをある程度理解している人々と、まるで理解しないで誘われるまま入ってしまった人々が同居、また、就労自立を望み「念願の抽選に当り、ようやく自立への第一歩を記した」と意欲満々の人々と、病院から退院したばかりの病人や明らかに就労自立が難しい高齢の人々が同居してしまう事で、さながら寮内は「?」である。就労自立を望む人の立場からは「この施設は保護施設か?老人ホームか?」という疑問が出、他方、病気や高齢の人の立場からは「何でこんな若くて健康な奴等が施設を利用するのか?」という疑問が出る。もっと不幸なのは誘われるまま入寮してしまった者で、施設の性格を理解する間もなく「どうせ一ヶ月で路上に戻されるんだからパアッーとやろう」と羽目外す。
 つまり寮内秩序が保たれる前提からしてここにはないのである。もちろん外面的な秩序は保たれるのであるが、寮生同士の確執というか、いじめというか、陰湿な関係というか、雰囲気は悪くなるのである。無論、さまざまな立場や年齢や考え方の人々が同居する事を前提とした施設だから、そういう混沌はある意味折り込み済みなのかも知れないが、それでも前提として、自分が暮らしているこの大田寮とはどういう性格の施設なのかという事は、おのおのの寮生が自覚して初めて良好なる寮生間の関係が生れるというものである。
 ところが、この肝心なソフト面の事を福祉事務所も、大田寮(実施主体の特人厚)も忘れてしまっていた。福祉事務所ではあまり詳しく説明をしない。「分からないことあったら大田寮で聞いてね」ぐらいしか言わないし、その場で言っても忘れてしまうだろうくらいにしか思っていない。けれども、寮に入って手渡されるのは寮の規律などをざっと書いた紙切れだけ。何が何やら、健康診断、結核診断を受けろ。それを済めば、あとはただ「待たされる」だけ。いろいろな事情を抱えている人々もこちらから相談にも行けない。まあ、飯は食えるし、風呂も入れるし、洗濯も出来るし、テレビも見れるし、散髪もしてくれると生活は不自由はない。風邪でも引いたら医者が来た時に受診に行けば良い。けれども、「これからどうなるの?」という肝心な事は誰も教えてくれない。これじゃ寮生疑心暗鬼になるのも仕方がない。「自立支援センター行けるって本当かね?」「行けっこないじゃねえの、また路上戻りさ」「自立支援センターって一体何なの?」なんて云う会話がどこかであれば、噂はまたたく間に全室にかけまわる。たとえば、保護施設のような場合は、「病気が治るまで」「仕事が見つかるまで」「特養ホームが空くまで」と、入寮者はそれぞれこれから先の目標を持ちながら生活をする事となる。それでも時たま厚生施設内で「事件」が起こったりするよう「待機」の状態があまりにも長いとストレスが溜まるのであるが、当初の大田寮のように、大ざっぱでも良いが「目標」が何ら示されない(もしくは個別の認識差があまりにも大きい)一時施設の場合はストレスが溜まるのは前提、それ以上の不測の事態が起こらない方が幸いという事となる。
 これらの不安なりストレスなり解消し、それぞれに見合った「目標」を示すような努力が施設サイドからそれなりにでも示されているのならばまだしもである。が、大田寮、何故だかアセスメント調査が始まるのは、何と入寮後4週間目前後。退所期限ギリギリでようやく調査相談に入るという始末。しかも社会福祉士とは名ばかりの素人相談員(路上現場を知らないアルバイト職員が多い)、制度の知識はあるが実務はトンと知識なし。すなわち頭でっかちな相談員。学者先生よろしく何故、この人が路上に至ったのかを社会的に考えるのではなしに心理学的、もしくは病理学的に「研究」「調査」してしまう(もちろん個人差は多いが、その傾向が強い)。「おいおい、俺らはモルモットかよ」との不満の声があがるのは仕方なし。しかもこれらアセスメントワーカー先生方は自立支援センターの実態などよく知らない。流石に「要綱」や「細目」は読んでいると思うが、所詮、頭の中で組み立てたものでしかなく、寮生に突っ込まれたり「質問」にあったりしても「良く分からない」の連発。「何だかこの対象者、本当に自立できるかどうか不安だけども、まあ仕事のやる気はあると本人は言っているし、他に手段もなし、路上に戻すのも可哀想だから自立支援センター行きが相当との報告を出してしまえ」と、そんな風。もちろん、これに騙され、自立支援センターに行って「こんな筈じゃなかった」と思っても後戻りは出来ない。そして、自立支援センターに一度「失敗」したら、今の要綱上はもう二度と利用できない。結果的には自立支援センター「失敗組」(すなわち今後対策体系に乗れない人々、路上に固定してしまう層)を一定程度生産しているようなもの。

 こんな、かんなで開設直後の大田寮は「大混乱」。問題点を指摘しても東京都は特人厚は「何せ、はじめての施設だからネ」と事態の把握すらしていないご様子。
 てな訳で、新宿連絡会は「こりゃまかせておけぬ」と、私めが工作員として派遣される事と相成った。
 工作指令の第1は、「とにかく寮長と交渉しなさい」。
 工作指令の第2は、「寮内でパトロールをしてチラシを撒きなさい」
 工作指令の第3は、「寮内でとにかく仲間を作りなさい」

 幸いにして運動経験のある仲間や入寮受付の時に「ツバ」をつけておいた有望な仲間などが大田寮内にはおり、これらの工作は順調に行われた。もちろん、まあ、いろいろと困難な側面はあったのであるが、3月7日、大田寮向けのチラシ第一号が寮内に飛び交い、3月11日、寮生有志と寮長との初の交渉が行われ、「アセスメントの遅れの改善」「生保対象者の入寮などによる施設性格の変質の改善」の意見、その他細々とした要望が寮長に伝えられ、議論が開始された。有憐の寮長さんは度量が深く、またこれらの対応の仕方も経験済みのお方であり「またこいつら運動やりやがって」と嫌な顔をされながらも、真摯に寮生の意見に耳を傾けていたそうな。この報はもちろん寮内の隅々まで広がる。路上での運動を知っている仲間は「やはり連絡会、来たな」「これはグットタイミング」と歓迎。他方、運動を知らない仲間もチラシの情報に接し「なるほどなるほど」と理解を示す。最初は無関心な人や警戒する人もいたにはいたが、その内、毎週チラシが飛び交うのは、何か大田寮の「しきたり」のように思う人も。

 他方、寮生の自治的な取組みが開始されれば、こちらのもの。路上の運動もこれに連携を強める。すぐさま、包括的な改善要望書を東京都と特人厚に提出(2002年、3月14-15日「要望書」)。東京都との代表団交渉の日程も決め、この代表団に大田寮有志を組み込み具体的な交渉を行う(4月12日・5月1日)。またあることないことチラシに書き連ね、都庁の前でばらまくなど、とにかく大田寮が「問題だ」という事を世間に印象づける。
 寮生と寮長の交渉で確約した「自立支援センターのしおり」(パンフレット)が娯楽室に置かれると、皆、先を争い「どんな施設だ」とのぞき込む。いかに情報がなかったかを示す良い事例。自立支援センターの写真も掲示させ、ビジュアル面でもイメージが膨らむ。こんな所なら「行っても良いな」と思う仲間、「いやいやまだ事業内容が十分ではなさそうなので、俺はパスして次の機会でチャレンジしてみる」と思う仲間、もちろん十分な情報を提供できたとは思わないものの、少なくとも、自己決定権を発揮できる最低限の情報は提起できたと思われる。そういう事も知らずに、真面目なアセスワーカーさんは「入寮期限が切れたら路上に戻る」という人を嫌という程追い回し、「拷問」にも等しい相談を強いていたようだが…。自立支援「失敗組」を再生産させるより、同じ路上でも、もう一度チャレンジできる人、また行政の自立支援事業の現状をある程度理解した人を路上に戻した方がよほど有意義であるとは、もちろん都区は考えない。何らかの事業に「失敗」すると云う事は、その分だけ心に「傷」や「負い目」がつくのである。かつて中央公園のテントの中で亡くなったある仲間は、冬季臨時宿泊事業の就労支援を利用し「失敗」した人であった。その「負い目」からいくら身体が悪くなっても福祉事務所には行けなかった。心配をするまわりの仲間には「大丈夫、大丈夫」と云い、死間近であっても痛みを堪えてしまったのである。そういう事を思えば、自立支援事業を気軽な行政サービスと考えてもらった方がよほど良いし、気軽に使えるように変えていかねばならないのである。
 いずれにせよ、情報がないというのは大きな問題である。やる事がない(延々と「待機待ち」させられる)というのも辛いものであるが、それ以上に、自分が何故、何のためにこの寮にいるのか?自立支援といっても、どのような事業があるのか?生活保護といっても、どういう生活をしなければならないのか?との不安を解消させるには、他の仲間の事例などに即した未来像が提示されなければならないし、分かりやすく、かつ適切な行政支援情報というのは不可欠である。これがあって初めて「よし待つか」となるのであり、「待つ身の辛さ」も緩和できるのであり、寮での規則違反なり、途中無断退所なりが減っていくのである。
 役所のどうしようもなさは、入寮者の立場で物事を考えない事に尽きる。その想像力も欠けている。だからこそ、運動団体が入寮者の立場で改善させていかねばならないのである。ある意味、必要悪であり、現状においては、その存在を最大限認めねば、路上生活者対策など一歩も良い方向に前進しないだろう(かの、自立支援センターも、暫定センター実施時の寮内闘争と交渉劇・97年-98年・があって始めて、ソフト面においてある程度まともに機能するようになった)。

 と、いう訳で、大田寮の改善の取組みが意識ある寮生を中心に開始され、問題意識を一定、東京都などが持つようになって、微々たるものながらも、ガイダンスも行われるようになり、またアセスメント体制も充実、効率化する方向性が都区において確認され、4週間目の調査相談が、3週間目前後に行われるようになった(もちろんこれでも遅いのであるが)。他方、生保対象者の入寮など明らかな「実施細目違反」は、各福祉事務所の実情に寛容なる東京都や特人厚は放置したままである。もちろん、私たちも「細目違反」を鬼の首を取ったようひたすら咎める程に石頭でもない。各福祉事務所の実情(宿泊所がないなど)に即して大田寮を運営するという事であるのなら、それはそれで構わないが、それならば病人や高齢者の生活棟を別ける、病人食が提供できるようにする、生活保護のガイダンスをしっかりとやるなどの工夫は出来そうなものの、それも検討さえされていないようである。これらの点はまだまだ改善の余地はあるだろう。
 私たちは、緊急一時保護センターは「なんでも相談」機能(福祉事務所の出張所があるようなイメージ)を有した、「相談施設」にすべきであると考え、要望して来た。もちろんその機能を強化させていく事も必要であるが、工作活動をして改めてガイダンスの必要性というものを実感もした。これらは寮生からの強い建設的な要望でもあるが、イメージトレーニングではないがビデオ教材などを使った学習、自立に役立つ書籍やパンフなどを閲覧可能にする、自立支援センターへの入寮希望者には面接訓練、職業安定所の利用のノウハウの訓練、今やインターネットで求人情報は全国的にとれるのであるから、どのような条件ではどのような職種に就職しやすいかなどの傾向と対策を兼ねた講習会、生活保護の仕組みなど、自立後に生活苦に陥った時のノウハウの講習会、建設労働などに就く希望を持った人々への、例えば山谷労働センターの情報の提供、斡旋など、そんな事もしていかねば、大田寮の自立への第1ステップ、とりわけ、自立への意欲の喚起や能力の向上を目的とした施設としての意味がなくなるのではないかとも考える。初期の大田寮は、まるで「飼い殺し」施設と言われても仕方がない体たらくであり、その自浄作用も出来ない運営体制であった。「走りながら考える」のであれば、寮生や利用希望者の意見をとことん聞き、様々なプログラムを実験的にでもやる位の度量がなければ、この施設は成功しないであろう。
 『卒業生が自立した後、「どうもありがとうございました」と挨拶に来るような施設』これが大田寮が目指さなければならない施設象であって、寮内でそれぞれの目的に即したプログラムを作ると同時に自立への選択肢を多様に作る事によって始めて「大田寮に入って来た人々には心身を充分に休めてもらい、ゆったりとした環境の中これからの事を考えさせ、かつ十分な調査をし、社会復帰に向けた意欲や能力を向上させた後に、各々の自立へのステップアップ先の施設などに振り分ける。大田寮に入って来た人々を決して路上に戻さない」という理想は実現できるのだと考える。最初から理想を振りまいても、何一つ始まりはしないのである。

 そんな事を大田通いの感想である。そして、現在、工作活動は一時休止しているが、再びの工作活動を私たちはこれからもして行くだろう。何せ5年もこの施設は通年開設されている。機会あるごとに集中的に改善させる事を続けながら、実効性ある施設に着実に一歩、一歩近づけたい。

 どうして、こんな事をわざわざ細かく書くのかと云えば、現在、路上生活者の様々な問題に関わっている人々が、何か行政がある施策を打ち出し、実施すれば、それで何かしら終わったような気になってしまうという傾向が見受けられるような気がしてならないからである。「どうしたら路上から脱却できるのか?」その方法論や政策論の議論はもちろん大事である。が、そればかりを考えていると、やれ生保がどうした、やれ自立支援事業がどうしたと、私たちの頭が「方法論」にばかし振り回されて、肝心の当事者の全体の利益がいつの間にやらどこかへと吹き飛んでしまうような気がするからである。要求を出しどんな施策をさせたとしても、最初から完ぺきなものはないだろう。もちろん支援団体の要求を無視して、行政が勝手に施策を進めてしまうかも知れない。その場合もまた同じであろう。しかし、いくら不十分な施策であったとしても、その施策を利用しようとする人々がいる限り、利用者の立場にたって改善させなければいつまで経っても不十分なままである。物事は極めて現実的に動くのであり、心地良い理想や政策批判を振り回したりしたとしても、それだけでは何も変りはしない。
 生活保護にせよ、自立支援事業にせよ、民間の支援にせよ、手段はある意味ではどうでも良いのである。肝心な事はありとあらゆる制度、事業、社会資源、そして当事者の能力などをフルに活用して、結果として、多くの路上生活者が野宿から脱却し、地域社会の中で「自立」するかという事であり、その手法は問う事もない。結果として有効な方法が見いだせるのであり、現地点において議論すべき事ではないだろう。つまりホームレス自立支援法が出来たとしても、生活保護制度でその目的が達成できる地域はその手法を取れば良いし、逆に自立支援策でその目的を達成できるのであればその手法を取れば良い、それらをミックスしなければならない地域、それらでは不足な地域は、ミックスしたり、また別の手法なり手段なりを獲得していけば良いだけの話しである。
 無論、私たちは運動団体である。その方法において、当事者のニーズ、当事者の意欲、能力がどこまで反映され、どこまで尊重されるのかを、施設などで野宿という現象が一時的に隠れたとしても、常に監視し、改善し、もしくは自ら参画する事によって、当事者の前向きのニーズを充足させなければならない。
 私たち新宿連絡会は「路上から墓場まで」の全生活過程において、くまなく貧しき民の団結形成を創出する事を(戦略)目標としている。広く誤解があると思うが「路上から路上」を目的としている訳ではもちろんない。当面は路上においての団結=つながり、コミュニティを基礎にしながらも、そこからの脱却過程においても、その質をいかに維持し、もしくはばらけたとしても再構築していけるかが、大きな戦略上の課題である。大田寮の改善工作や、生活保護受給者、自立支援センター卒業生などで作る「もやい結びの会」も、また、今後私たちがチャレンジしていこうと思っているNPO事業体も、はてまた私の趣味と陰口叩かれ発行している「露宿」にしても、つながっていないようで実はちゃんとつながっているのである。
 私たちにとっての法案問題とは、私たちの上記の(戦略)目標をいかに実現させるのか、その環境作りの一環(手段)にしか過ぎない。多くの仲間と出会い、多くの仲間と生きていく、そのために手段は選ばないし、戦術も多様に変化する。

 もちろんこの目標がどうあれ、地方においてはその実感がおそらくあまりないのだと思われるが、大都市たる東京へは、地方からの新規流入者は後を絶たず、いくら生保をかけても、いくら自立支援事業をかけても(もちろんこれらに不備はあるが、それを差し置いたとしても)、数に施策が飲み込まれるという状況に至っており、この大都市部への新規流入者をある程度制限していかない事には東京における施策というものは混迷を深めるばかりである。そして、そのためにも東京都などは、国が責務としての全国一律の自立支援システム、野宿の防止策というものを求めて来た。
 たとえば地方都市における200名前後の路上生活者がいたとすると、その解決のためにはとりあえず生活保護を適用してから個々のニーズに即して振り分けるという手法も可能であろう。もちろん更生施設がないなどの自治体が多いものの、わざわざ箱ものを作らなくとも市営住宅の活用や既存の遊休施設の改修などで間に合うものと思われる。今いる路上生活者の問題の解決を語るとすれば、数が相対的に少なければ少ない程、それは技術的にはさほど難しい問題ではない。が、問題は、日本経済、なかんずく地方経済の今日的な破綻が、失業者を多く大都市へと排出させている構造であり、今日の製造業、建設業など不況業種に雇用を依存してきた構造などを地方が地方の場においても解決していく方向性がなければ、結局この流れに歯止めはかからない。これはこの国の大きな構造的問題であり、大きく歯止めをかけるには、まだまだ時間がかかりそうであるが、けれども少なくとも野宿に至る事への予防策、雇用の予防策などセーフティネット(生活保護の積極適用なり、職業訓練の実施であったり、NPOなど民間と協力した地域活性化策なり、失業者を地元に吸収するシステム)を構築していく事が求められるのではなかろうか?
 大都市におけるホームレス問題の一端を担っているのは、地方問題でもある。この視点がどこまで認識され全国的な路上生活者を生みださない施策が行えるのか?この事を考えるなれば、国が責務としたホームレス自立支援法の制定の重要性は(運動論はさておいて)一般的にも理解戴けるのではないかと思う。
 大都市においても、貧民、失業者を路上に排出させる構造はかなり深刻なものとなりつつあり、大都市部における予防策も今後、真剣に考えださねばならない大きな課題となるであろう。
 こういう様々な社会的な課題(いうなれば都市貧民に対する社会政策)がある中で、私たちの立場からするならば、貧しき民が大都市の「冷酷さ」に押しつぶされないためにも、貧しき民の相互連帯と自助組織の必要性があり、路上生活者を含めた貧しき民の各種生活改善の運動が必要となるのである。

 翻って、大田寮を含めた都区の路上生活者対策。2002年2月の概数調査でも明らかなよう、東京23区部だけを見ていけば、圧倒的に施策体系は不足している(この数年、都区が何もやっていないのではなく自立支援センターでは既に入所累計は1000人を超え、内約50%の人々が就労自立や生保適用と比較的安定的な生活基盤を確保している、新宿福祉事務所においても昨年度で約640名の入院、施設、ドヤ保護を実施している)。「ホームレス白書」の計画が今年度も着々と進行していく、また、生活保護行政における保護件数も増えて行くと思われるものの、とうてい今いる路上生活者の数からすれば間に合わない。そして今後新規参入するであろう路上生活者の数もはっきり言って見通しが出来ない。かつて私たちが指摘した通り、「こぼれ落ちてくる笊の底穴を塞がずに掬っている」状況だからである。しかも笊の中の砂は一定量ではなく、次々と増えて来る。そういうジレンマに都区行政、そして私たち民間団体が陥っているのも事実だ。

 けれども問題点はある意味でははっきりとしている。新規入流防止や、野宿化防止策という問題は、法制定後の具体的課題としてあるが、現にいま路上生活者を余儀なくされている人々に対し、それらの人々がたとえ固定した層と考えたとしても、緊急一時保護センター、自立支援センター、今年中にできるであろうグループホーム事業や更生施設などの生活保護運用など、路上から脱すし得る自立への支援策はそこそこやってはいるものの、それは、まだまだ一部的な効果しか現われていないという事である。
 緊急一時保護センターが設置されても、各区の対応にバラつきがあり、どのような人々を優先的に入れて行くのかすら明確になっておらず、また生活保護との線引きがはっきりしていない問題、および自立への入り口施設としての位置づけがありながらも、ソフト面におけるプログラム一つたてられない不備が問題となっている。
 他方、自立支援センターにおいても、野宿歴が浅く、常雇い経験が長く、年齢も比較的若く、かつ技能や経験を有している人々にとっては、かなり有効な施策である事が明らかになってはいるものの、建設土木産業で長年働き続けて来た人々、50代後半から60代前半の無技能の人々の「自立」までは画たるものとして描き切れていない事が問題となっている。
 また生活保護行政にしても、「厳格な区」と「そうではない区」の混在を放置したままで、また、自立支援事業との連携が取れておらず、一部の区においては自立支援事業に無計画に「流し込む」傾向も現われている。
 自立支援事業施設にせよ、更生施設にせよ一定程度の規模の拡大は必死であるものの、箱ものに頼らないソフト面の開発は遅れており、これが逆に箱ものに頼る傾向にもつながっている。
 これら問題点を列記すれば数限りないのであるが、本来、ホームレス問題というのはそう単純なものではない以上、これらの課題を整理し、順位をつけながらクリアさせていく事こそが重要であると思われる。そして、生活保護を受給している仲間にせよ、「失敗」した仲間にせよ、自立支援事業の利用者にせよ、「失敗」した仲間にせよ、矛盾のあるところ(適正に行われていない事業)からは必ず、「声」が発せられる。その「声」に敏感であり続ける事、その「声」に呼応していく事。このことが何に増しても重要であると考えている。

 私たちは仲間と共に、一歩一歩、これらの課題の克服に向けて歩みだしている。頭でっかちな理想論や政治論を掲げるだけでなく(こういう岐路に立ちつつある今日、えてして人はバケツをひっくり返したくもなるが)、現実的そして、着実な改善こそが、何にもまして必要な事と考えているからである。

 法案問題(陳腐な議論)の中で私も少し「頭でっかち」になってしまった。自戒を込め「野宿が禁止されない都市」「野宿生活から脱却できる都市」「貧しき者が生きられる都市」という自らのスローガンを再度思考する東京の旅へ出発するつもりである。死者や生者と飲む旅の途中の酒の味は、ほろ苦くそして儚き夢がいっぱいつまっているから…。

(了)
2002年6月刊行-Shelter-Less