夏、毎年、暦とは関係なく、イベントの都合だけで祭壇を作り、路上の仲間を悼んで来ましたが、今年は新宿高田馬場の事務所内に小さな祭壇を設置し、暦通り、12日に迎え火を焚き、路上で亡くなった仲間、支援活動の最中で倒れた仲間たちを迎え入れ、16日の送り火で仲間を送りました。
例年の反省から大きな行事を作ることなく、また、坊さんなど外部の人々を呼ぶこともなく、故人を知っている仲間や、ゆかりのある人々だけで、日常活動の中で静かに執り行いました。それでも、シャワーを浴びに来た仲間や、わざわざ遠方から足を運んでくれた支援の方々が、それぞれ、それぞれの仕方で焼香をして下さり、故人たちもたいそう喜んでくれたでしょう。
ついでながら、昨年印刷機の不調で作れなかったチラシを今年版に訂正した駄文を。
「お盆にあたって」
新宿連絡会 代表 笠井和明
お盆と云う行事は、亡くなった魂が、年に一度自分の家に戻ってくると思われていた古くから続く風習です。
私たちがこのお盆の時期に祭壇を作り続けるのも、その風習に合わせ、路上で亡くなった仲間を弔いたいと考えたからです。
どこの土地でも、どこの町内会でも、この国では未だ盆踊り大会や、夏のおまつりと云うのは、正式な神社仏閣の催事とは別に行なわれています。そこには古来から信じられているお盆にまつわる伝習が、おそらく詰まっているのでしょう。
この時期にお休みが取れることも、この時期に田舎に帰ることも、この時期に終戦記念日があることも、お盆があったからこそのことなのでしょう。
死者の弔い方は人それぞれです。その弔い方を人に強いることや、弔い方を批判することは、まるで意味のないことだと思います。なので私たちは何も強制するつもりはありません。一昨年までやっていた「黙祷」も今回からは止めようと思っています。
何も一つになることはないのです。それぞれが、自分が知っている仲間を、世話になった仲間を、その元気だった頃の顔を思い出し、弔えば良いのだと思います。
死は平等である以上、どこで、そして、どのような状態で亡くなろうとも、等しく死です。
「のたれ死に」と云う言葉があります。路上で亡くなる人への憐憫や軽蔑を込めた言葉なのかも知れません。しかし、その死は決して恥ずかしい死ではないと私は思います。
名簿に中にある仲間は、正確に言えば、「行き倒れ」で、お亡くなりになった場所は病院の中、もしくは救急車の中ですので、「のたれ死に」ではありません。でも結果は同じです。どこで亡くなろうとも死に上下や差別がある筈はありません。
それは生きている側の身勝手な思いでしかありません。
そこに何かを見い出だそうとする世俗な人々は、のたれ死にが問題だと言い、無縁仏が問題だと言います。人の同情が得やすいから、そのような事を言うのでしょうが、遺族や、その人々を知っている者からすれば、あまりにも欲深く、あまりにも利用主義的なと思わざるを得ません。
言葉のお話でもう一つ、ここにはいつも「無念追悼」と書かれています。それを昨年から「追悼」だけにしました。私は坊主でも神主でも、また牧師でもないので本当の意味と云うのは分かりませんが、無念と云う言葉には、残念で悔しいと云う意味と、迷いを離れ無我の境地に入ると云う二つの意味があります。
けれど、私たちは凡人で俗人です。どうしても残念で悔しいと云う感情を押しとどめられません。けれど、その念が強すぎれば強すぎる程、死者を惑わせ、成仏をためらわせてしまうのではないかとも思うのです。
弔いは無念の中で行なわうのが死者を尊ぶことにつながるのでしょう。人の死を、本当にごくろう様と無心で労えるようにならなければ、私たちは、私たちの生を尊重することが出来なくなるような気がするのです。そんなこともあって無念と云う言葉に生きている側が惑わされないよう外させて頂きました。
私たちは路上の先人達、先輩達に見守られている。それが無理なら見守られていたい。何の屈託もなく、また顔を合わせ「元気かい?」「そちらはどうだい?」「あら、死んだんだ」「あら、まだ生きてたの?」と話をしたい。せめて年に一度くらいは。
弔いとは、忘れないと云うことだけなのであろう。そして、どんな環境にいようとも、普段通り、心安らかに生きていかねば、人は人をも忘れてしまう。
分かって下さる方が一人でもいれば、幸いです。
以上