新宿連絡会が活動拠点の一つとして利用していた中央公園ポケットパークが本年9月19日から改修工事に入るため炊き出し等の利用が叶わなくなった。
ポケパ(私たちは拠点への愛しみを込めてこう称していた)で初めての炊き出しをしたのは、忘れもしない98年2月8日の事である。ご存知の通り、その前日早朝5時に新宿駅西口インフォメーションセンター前のダンボール群は火災により半壊した。そこを炊き出し等すべての活動の拠点としていた私たちは突如の悲劇により場を失った。当時、中央公園で炊き出しに適していたと思われていた「水の広場」(ナイヤガラの滝前広場)は生憎工事中で閉鎖されていた。以前より冬期炊き出しを中央公園で実施していた救世軍は、この冬だけポケパを利用して配食をしていた。咄嗟の事だけに、ある意味それだけの理由で私たちは決して炊き出しには相応しくない、名前通り小さな広場に炊き出しの拠点を移した。以来、8年半に亘りポケパは雨の日以外の炊き出し拠点、集会等の集合地点、越年越冬の拠点として活用される事となる。
2月8日の炊き出しには150人も集まっていなかったかも知れない。冬場は日没も早く、また証明も決して行き届いていない暗い公園の片隅で、火災に散った仲間を思い泣き、今後の不安に胸をつまらせ、それでも励ましあった。「今日の飯は涙で塩辛い」と誰かが言った。当時は炊き出しボランティアなどほとんど来ず、数名の活動家と仲間だけによる暗澹たる炊き出しであった。中央公園にテントを張って暮らす、当時はほんの数十人の仲間が「連絡会が中央公園に拠点を移す」と知って、これまた不安な面持ちで私たちの炊き出しを見つめていた。
炊き出しは回数を増やせば増やすほど、野宿者の依存度を高め、その自立に取って悪い影響を及ぼす。連絡会発足時(94年)に私たちは何故だかその事を知っていた。炊き出し等ボランティアが乱立する山谷の現実から学んだものかも知れない。当時、新宿の炊き出しと言えば、冬場だけ週に一度行う救世軍の炊き出しだけだった。そのため、動ける者は「エサ取り」に励み、「テレホンカード集め」「古本集め」等の雑業をし、動けない者に分け与える一つの風潮のような「つながり」が形成されていた。賞味期限切れの「エサ」運びを手伝わされたり、忙しい彼、彼女らの不得手な行政との交渉事を頼まれたりと、そんな当事者の「自尊心」の補助役のようなものが支援者と呼ばれる私たちの役割だった。
炊き出しを始めるようになったのは96年の冬に差しかかる頃だったか、行政の法外援護(カンパン等)の支給が休みの日曜日、そして多くの仲間が疲れを取り休みたいと思う日曜日の夜に週に一回だけで良いから「暖かい飯」をと、それは決定された。あくまで一週間の疲れを癒し、明日からまた一週間頑張ろうと思えるような、たった一食の無料の食事。これが連絡会の炊き出しの原点であり、恐らくその原点はこれからも忘れない事であろう。
ポケパに炊き出し拠点を移した時期が悪かったのだろうか、景気の更なる悪化直撃し、東京の野宿者人口はピークに達していた。新たに野宿に至る仲間も増え続け、中央公園はいつの間にやらテントだらけになった。誤解のないようここで告白しておくが、連絡会はテントを増やすような運動をしていた訳ではない。西口地下広場時代は確かにそれは東京都の排除方針に直裁に対抗する運動方針であった。が、火災を契機にその運動上の総括を行い、居住地域を守りそこから野宿脱却の道筋を作る運動はするが、積極的にテントを増設させる運動はしないと確認されていた。「当座住む場所は自分達で探せ」と、私たちは突き放したのである。何故かと云えばそこで発生する「甘え」を排したいからであった。この過程は苦しく、また非難もされた。しかし、誰かに作ってもらい、また誰かに守ってもらっている小屋に「ヤドカリ」のように暮していたのでは社会の一員としての発展はなにもない、自分の住み家は自分で責任をもって探せと、頑なに拒んでいった。私たちが否定した「ヤドカリ」もまた多かったとは云え、それでも皆でいろいろな村を自らの力で開拓をした。私たちの目からは「おいおい、お前等、開拓しすぎだよ」と思える程に。
そして、いつの間にか中央公園は野宿者の一大集住地域として注目され、そこへ無数の炊き出し団体がやって来る。その思想信条や目的はともかくとして、まだ日の暮れない夕方からとか、朝の10時からとか、頻度も週に二三回などとか、ともかく配る側の都合で時間を設定し、バラエティ溢れる一大炊き出し地点にいつの間にやらなって行く。そして、一部の野宿者の層は自らの生活をそれに合わせて作るようになってしまった。そりゃ働かずに食えるタダの飯は魅力であろう。意志の弱い人々はそう云う流れに組み込まれ易い。もちろんすべての野宿者ではなく、あくまで一部の野宿者に当てはまる現象である。今でも「俺は日曜しか食いに来ないよ」と云う仲間は多い。戸山公園などに行けば「冗談じゃない、俺はそこまで落ちこぼれちゃいない」と云う仲間も多くいる。それはそれで安心なのであるが、他方で「甘え」にどっぷりと漬かってしまった仲間の未来を考えると、再び暗澹たる気持ちになる。
幸いにして、地域生活移行支援事業で中央公園がもはや野宿者の一大集住地域ではなくなった事もあり、新宿での炊き出しは減りつつある。しかし、だからと言って餓死者が増えるとか、栄養失調系の病死者が増えるとかの現象は起こっていない。過剰すぎた炊き出しが整理されただけなのであろう。だから多くの団体の炊き出しの拠点であるポケパに工事が入ると聞いた事に、私たちは何故か違和感を感じなくなっていた。時代と情況に即した動きとして理解する程になっていた。きっと、時が時ならばマスコミが大喜びするような「ホームレス対行政」と云う構造になっていたろうが、私たちはそんな直情的ではないし、また間抜けでもない。その歴史を作って来た者として、ポケパの役割は終ったのだと知っていた。これも一つの節目である。拠点など失っても、またその時々の情況に応じて作れば良い。只、それだけの事である。
炊き出しとは善意の行為である。少なくともその団体の目的が別にあったとしても、配る現場の人々はそう思っているに違いない。だから、それをすべて否定する気にはとうていならない。しかし、その善意もあまりに篤すぎると「おせっかい」になったり、「自立の阻害」になったりもする。炊き出しをすれば人が自然と集まる。その集まった人々を、善意が行き過ぎ何らかの目的に利用するなんて云う現象も私たちは嫌と云う程見て来た。さすればそんな炊き出しは「餌まき」にしか過ぎない。
そんな事を考えながら私たちは静かに炊き出しを続ける。