第8回新宿
第3回池袋 越年闘争支援連帯集会 12月24日、四谷区民センターにて新宿、池袋越年越冬闘争支援連帯集会が100名の仲間、支援者の結集で行なわれました。集会には民主党鍵田節哉代議士からも連帯のアピール文が届くなど、今年一年「ホームレス自立支援法」制定運動を全国の仲間とともにたたかってきた私達の運動の広がりを確認できるものとなりました。法案制定は残念ながら今年は流れてしまいましたが、仲間と共に年を越すたたかいを共にやりながら、来年通常国会の場において再び法案制定運動を力強く行なう事を全体で確認しあい、集会は熱気の内に終了しました。 |
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一、はじめに
21世紀の初年である本年も、私達の運動がテリトリーとする野宿者、そしてそこにつながる貧困者の現状は基本的な変化もなく、端的に云えば、社会から疎外され、放置され続けて来た。
バブル崩壊以降、否、戦後史を一貫する野宿者、貧困者に対する社会政策の本質的欠如と「成長神話」に毒された人々から発せられる社会的偏見は、世界が、そしてこの国において更に大きな曲がり角に立った今日において尚、不幸にも維持され続けている。
ホームレス問題の原因を「景気」一般、「資質」一般に求め、この国の構造的な貧困問題をそこから見抜けない人々は、社会問題としても、この問題を認識しない。また、ホームレス問題の視点を「行政」一般、「同情」一般に求め、思考がストップしたままの人々は、社会が果たすべき役割、そしてホームレス者や貧困者の「これから」を主体的に考えない。
新宿四号街路の路上の現実から出発した私達は、そこにこの国の高度経済成長に狩り出され、そして使い棄てられた「働き人」を見た。そして、その仲間等と日々接して行く中、私達と何ら変わらない「人間」そして「社会」を見た。そこに人の歴史があり、日々の生活があり、人の交わりがあった。
この国のどこにでもある光景ではあるもの、けれども、そこには「生きる希望」が乏しかった。やられっぱなしだった。殺されっぱなしだった。心がすさみかかっていた。
だから、私達は仲間と共に進もうとした。「生きる希望をもとう」「やられっぱなしで堪るか」「野宿から脱するため屋根を勝ち取ろう」「不安定な生活から脱するために仕事を勝ち取ろう」と。
私達の八年の歩みは今もその歩みの中に在る。すなわち、現状に満足する事なく生きる希望を渇望している人々による、前へ前へと生きる希望を獲得する運動としてある。
確かに、その「成果」というものは見え難い。仲間の数は一向に減らない。社会の変化も全体からすれば微々たるものである。
けれど、私達は運動という何かを確実に路上に刻印し続けている。一人ではまだ胸を張って生きてはいけないかも知れないが、仲間が集まれば胸を張って社会に物を申せる立場へと至った。
仲間の「これから」は見えない。そして「生きる希望」もまだ見えてはこない。だけれども、先を見通す力は私達はどの誰よりも身につけて来た。私達は決して後戻りはできない主体である。貪欲に明日を求める主体である。それが、何も変わりはしない社会の中で、唯一変わった事なのかも知れない。
私達の苦闘はまだまだである。そしてこれからである。私達は、その事を肝に命じている。
二、本年の諸活動の成果と反省、そして課題
1、対策の拡充、拡大を求める東京都、特別区とのたたかい
私達は九八年来、東京都、及び特別区に対し「屋根と仕事に結びつく路上から脱する施策」を行えと、九九年「路上提言」に基づく数多くの要望を出し、全都の仲間と共闘しながら、大衆的な行政闘争を展開して来た。
その大きな課題として自立支援センター設置要求が掲げられ、その実施を昨年十一月、新宿寮、台東寮の開設、そして本年五月豊島寮の開設としてようやく実現した。私達は新宿寮、豊島寮の面会激励をすぐさま着手し、寮内工作と組織化をしながら、事業内容の点検および改善点の洗い出し作業に着手し、勝ち取った事業を仲間が有意義に利用できるような拡充の取り組みを開始した。現在、新宿寮、そして豊島寮が、台東寮に比して仲間が使い易く、また、その結果として自立率も高いのは、要求したものを責任をもって注視して行くとの立場を一貫させてきた結果であろう。
私達の要望の積み重ねにより、東京都福祉局は本年3月、「東京のホームレス」(ホームレス白書)を発表し、旧来(九六年確定)の「路上生活者対策」から一歩踏み込む姿勢を示した。行政施策は生活保護と、自立支援センターだけで良いのか?もっと多様なニーズに即した対策がなければならないのではないのか?という私達の問い(九九年「路上提言」)に対するひとつの回答として、この「白書」はあった。
都は緊急一時保護センター、自立支援センター、グループホーム事業を三セットにしながら、そこへ生活保護制度を包括的にかぶせる施策体系を新たに位置付けた。私達はすぐさまこの「白書」に基づく政策変更を歓迎し、三事業の早期設置を要望する事となった。
五・一メーデー時の代表交渉、その後の都庁前大衆行動と交渉を続けた事により、都の方針は特別区の合意を得、都区共同で、十二月、緊急一時保護センター・大田寮が開設される事となる。他方、自立支援センター増設計画とグループホーム新設が全体的に遅れている事を批判しながら、旧来の冬期臨時宿泊事業宿泊枠を堅持させるため、新宿区福祉課との交渉も進め、「さくら寮」を準更生施設的に使うのではなく、本来的な冬期宿泊に利用させる事で越冬期の新宿枠を維持させる事にも成功した(もちろん、生活保護枠での窓口業務は後退させていない)。
東京都の基本方針を支持しながら、その実施を強く求め、更にそこから発生する「過渡的」な対策体系の遅れを旧来事業の柔軟的な運用によって埋めて行く。私達の行政要求運動は、単に「提言」や「要求」をするだけではなく、実際の現実的な事業運用問題にまで「提言」し「実施」させる所にまで至っている。また、自立支援センターの各区枠を緊急一時保護センター設置と同時に実質「撤廃」させた事もまた、私達の要求運動の成果である。台東寮の定員割れ状態など、看過できない事態の中で、自立支援センター利用希望者が多い区は旧来の枠にこだわらずに、緊急一時保護センターから自立支援センターに移転させる事が可能になった事は、東京都の対策体系を各区利害の弊害(対立)を排し、より円滑にさせていく第一歩である。
このように、私達は東京都、および新宿区との「質の高い」交渉関係を維持しながら、事業体系の拡大、拡充を責任もってやり抜く事が出来た。
もちろん、東京都の新たな施策方針が「完璧」であるとは考えられない。しかし、確実に東京都の姿勢を「排除一辺倒」(九三年から九七年)から「自立支援」主軸へと変えて来た事を確認しなくて、何が対策の要求であろうか。九七年十月から今日まで東京都福祉局に「あと戻り」を一切させて来なかった、来なかったばかりか、路上生活者対策の主導権を福祉局に握らせ、その路線を「白書」にまで確定させた(つまり、都の政策として確定させた)事は、私達の長年の対東京都とのたたかいの大きな成果である。他の制令指定都市を見渡しても、行政の政策として確固たるものは未だ作れず、施策的に右往左往している現状を見ても、都の先駆性、そして、それを強制してきた運動の成果は、動かし難いものとしてある。
このたたかいは、もちろんまだ「過程」である。私達は都の基本方針を支持しながら、計画されている三事業の完全実施を求め着実に運動を進める必要があると同時に、その運用面における改善点を多く出し、そこに責任をもっともつべきであろう。で、なければ私達が掲げる対策の「拡大・拡充」も単なるスローガンとして終り、これらの施設に入った仲間を放置する結果としかならない。また、緊急一時保護センター内においては、多様なニーズに対応できるようにさせて行く、とりわけ、「半福祉、半就労」スタイルの選択肢を事業内容として確定させて行く事は当面の大きな課題となる。
私達はこれらの「成果」を前提にした対策要求運動を今後も行なう。これが足りない、あれが足りない式の、これまでの経緯を一切転覆するかのような無責任な批判はしない。着実に「屋根と仕事」に結びつく施策を獲得してい行く事こそが、私達の歴史に基づく運動スタイルである。
2、「自立支援法」制定を求める国会に対するたたかい
国に対する要求行動について、私達は東京都の施策も含め、全国的に行政支援が遅れている原因は、国が政策としてこの問題を考えず、結果「法制度」を構築していない事による混乱にあると判断をした(00年「国提言」)。端的に云えば、国が責任を感じていないという点である。
この問題は広く、かつ様々な観点が噴出する問題であり、私達も昨年秋の国会行動時において内部においての議論を徹底して行なって来た。
私達は観念的な議論の継続かつ観念的な運動ではなく、具体的な方向性を持った運動をすべく、昨年来から国会における民主党など良心的な議員との関係を深め、六月、「ホームレスの自立の支援等に関する臨時措置法案」の国会提出へと、事態を前進させる事に成功した。
私達はこの「法案」をもって、この「法案」を国会で通過させる事を第一義的な目的とした具体的な政治闘争をたたかう土壌を自らの手で作り出して行き、また、釜ヶ崎反失連など全国の同じ志向性をもった団体と、国会における大衆的な「法案制定」運動へと本格的に着手するに至った。
六月、十月、十一月と三度に亘る国会における全国闘争、そして池袋連絡会、三多摩ネットととの共同戦線による四度に亘るキャンペーン行動、小泉差別発言抗議行動など、本年は国会前へと私達の陣地を広げ、縦横無尽にたたかいの火の手を拡大した年でもあった。
残念ながら公明党の党利党略による「反対」など、「法案」が政局がらみの案件となってしまった(朝日報道をきっかけに)ため、臨時国会での成立は見送られ、継続審議扱いとなってしまったが、私達は今日の高失業時代、セーフティネット崩壊時代にあって、国が責任をもってホームレス対策(野宿者への総合的な対策、野宿に至りそうな人々への防止策)を全国的に行なうべきだとの声を、国会内外において刻印して行ったと前向きに総括できると考えている。野宿の仲間が年間を通して国会へ国会へと通いつめた事は歴史上初めての事であり、この事が示した社会的、運動的な意義は、「法案」問題が決着がつかなかったものの、極めて重要な事である。これまで社会問題とされながらも、国が関与する程の問題としては認識されていなかった事案が、ようやく国会にも認知され始め、保守系の議員までもが「民主党案」の骨子を支持するという事態にまで至ったのである。これは、私達の運動がないところでは決して実現し得なかったであろう大きな成果である。
もちろん、小泉政権は主体的に「ホームレス対策」をするどころか、弱者切り捨てとも思える政策を「構造改革」の名の元で次々と打ちおろして来ている。雇用政策、景気対策も、私達に関連する分野においては中途半端なものでしかない。しかも小泉個人は例の「乞食発言」という認識しか持ち合わせていない。が、逆にこのような政権下の中にあって、全国の仲間の力でここまで「法案」問題を浮上させた事こそが確認されるべきであろう。
国会への本格的なたたかいは初めてだったので、私達も本年の国会闘争の中で、おおいに学ばせてもらった。また、先行きの読み間違い、運動設定のタイミングなどの点で反省すべき点も多い。他方、東京におけるこれまでの経緯が広く認知されていない、理解されていない点、そして「管理権行使」の法解釈問題での議論が放置されていた点などは臨時国会中における議論の混乱を招いた要因ともいえるだろう。「強制排除」は「解決方法」ではないという論点を「法」の中にどのように加えるかという点において無自覚であったし、あまりにも、切り離して考えすぎていた点は反省すべきであろう。
が、具体的な「法案」は今国会にあるのである。私達は決して諦める事なく、「民主党案」をベースにした法案制定に向けた第二ラウンドへと突き進んで行く。私達は国の責任を明確化させ、現行の対応のための対策ではなく、政策としての対策を求めて行く。国の動きと地方自治体の施策をリンクさせていかない限り、東京都がいくら良い施策を準備したとしても、その拡大や拡充が担保されないし、結果として現行の施策の破綻を生じさせてしまう可能性がある。
これは壮大なたたかいであり、そして困難なたたかいでもある。が、私達はそうであるが故に、重要なたたかいであり、決して後戻りできないたたかいであると認識している。
私達の全力量を振り絞り、このたたかいの継続を更に続けていく決意である。
3、仲間の命と生活拠点を守るたたかい
私達は、東京都、特別区に対する現行「路上生活者対策」の拡大、拡充を求め、一つひとつ具体的な成果を勝ち取りながら、国会に対し「ホームレス自立支援法」の制定を求める、全国の仲間と連携した大きな政治課題に対する要求行動を運動の柱として年間を通じ、仲間と共にたたかってきた。
それは、一人でも多くの仲間が、「生きる希望」を感じ、「生きる展望」を見い出し、前へ前へと進んでもらいたいがためである。そして、実際新たな対策を利用し就労し、アパートなどへ移り住んだ仲間が、その中から多く生み出されて来た。共にたたかう事により、「絶望」を「希望」へと転じた(施策の枠が相対的に少ないので「幸運」とも言えるが…)仲間がである。
路上から前に進んだ仲間の姿はなかなか目に留らない。現状の深刻さの方がまだまさ大きいからである。が、私達の運動の前進と共に、確実に、施策を利用しながら、もう一度やり直していける仲間の数はより増えて来た。行政は所詮行政という醒めた視点がある。もちろん自力で前へ進めればそれに超した事はない。が、施策の前進はすなわち社会(もちろん自らも)を変えて行く事である。野宿者や貧困者への冷たい視線を変えて行く事である。層としての希望や展望を獲得して行く事である。
だから、私達はこれらのたたかいを連絡会運動の中心課題として行なって来たし、これからも行なって行く。
他方、このたたかいの基盤となるのは、路上の仲間、そして、路上から脱した仲間の組織であり、それを支える日常活動の数々である。
「路上の何でも屋」たる私達は本年もまた日常の取り組みを根気強く、一度も休むことなく行なって来た。仲間の命と生活を守る路上の事業として、毎週八百から千食にもおよぶ炊出しを、山谷、池袋の仲間や、ファミリーに集うボランティアの方々と共に、また、様々な人々の支援を受けながら続けて来た。私達の炊出しの原点は、「明日への希望」である。「明日の月曜からまた一週間を頑張ろう」そんな思いを噛み締めてもらいたい、そして仲間が集えばこれだけの事業ができるという自らへの自信をつかんでもらいたい、そいう思いで共同炊事は開始され、その原点を失う事なく今年も続けてこられた。
そして、この炊出しを「仲間の集う場」にして行こうと始めた、文化、娯楽活動も音楽会や映画会の随時開催、一年ぶりに本祭りが再開できた新宿夏まつりの開催など、今年も仲間の団結拠点としての位置を維持する事が出来た。
また、仲間の健康を守ると共に、病苦の仲間や高齢の仲間を生活保護へとつなげて行く医療相談会は中央公園で毎月一回の開催と同時に、今年は高田馬場戸山公園でも毎月実施する事が出来、医療従事者ボランティアと仲間のつながりがより一層大きくなった年でもあった。健康に対する意識は流動層が多い新宿ではなかなか定着しないものであるが、回りの仲間や、古い仲間が支えて行く構造は新宿ならではの強みである。無論、それでも路上死がなくなる事はなく、今年も中央公園、戸山公園(大久保地区)、戸山公園(箱根山地区)で、それぞれ一名づつ仲間が亡くなり、また、駅周辺でも数名の仲間が路上死を遂げた。路上の医療体制がいかに充実しようとも根本問題を放置したままでは避けられない事態である。けれども、一人ひとりが生きる希望を持ち、健康に対する意識を持ち、仲間が仲間を支えあう関係をもっと作っていくならば、路上での不幸な死は減らして行く事は可能であると私達は信じている。
福祉行動は、医療相談会やパトロールとリンクした重要な取り組みである。私達は毎週月曜日の福祉行動を今年も欠かさず行ない、生活保護の申請を支え、時には相談員とやりあい、福祉事務所の姿勢を糾しながら、数多くの仲間の福祉申請の手助けをして来た。
病院面会、寮面会なども随時ではありながら行ない、退院後のホローなどもきめ細かく行なって来た。
福祉相談やその他の各種相談を受ける、救急対応をする、あるいは正確な情報提供をするなどの目的をもったパトロールも、夜、昼問わず、私達は新宿地域で週三本のパトロールを年間通して実施して来た。旧来の発想であった地域拡大という事をあえてせず、確実かつ丁寧なパトロールをやる事の中、仲間のつながりは、仲間の手によって行なわれ、中野地域や神田川沿いなどの仲間にまで情報は行き届いた。
これら、路上の活動は、医療相談をのぞけば、ほとんどが仲間の手と力による事業である。九五年に既に定着していたこれらの活動はややもすればマンネリ化し雑な活動になりかねないのであるが、それぞれの責任者が原点を忘れず全体を引っ張り、活動のための活動にせず実施できた事は、事務所を持たず流動的な活動をしながらも連絡会組織を強固に維持させてきた最大の理由であろう。
また、本年は新たな仲間の組織化を求め、これまでにない領域により一段と踏み込んだ年でもある。生活保護受給者の会「櫟の会」を発展させ、自立支援センター卒業生などとのつながりを作りだすため自立生活サポートセンター・舫(もやい)を発足させ、懸案課題としてあった保証人提供事業を行なうと共に、低家賃アパート街などでの訪問活動やグループ作りを展開した。まだ、初年度という事もあり、地域を対象としたつながりが飛躍的に作られたとまではいかないものの、今後の方向性として、路上コミュニティと地域コミュニティへの分断されない関係性を強く認識し、組織方針として無限の可能性がある事が確認された。もちろん、そのつながりは一本ではない。文芸誌「露宿」に集う仲間や、運動に集う仲間、炊出しに集う仲間など多様な人々の集まりだからこそ、つながりを作りだす課題は多様である。これらの無数のつながりを幾重も作り、それを包むかのような大きな貧しき民の社会的な関係を紡ぎ出して行くことが、今後の大きな組織方針ともなるであろう。
4、池袋連絡会の取り組みについて
池袋の仲間、そして三多摩野宿者ネットの仲間とは、本年度の都区、および国会への要望運動を共にやりぬいて来た。これらの運動上の総括については、各団体において共通するものであると考える。
他方、池袋の地においては、豊島区の仲間のより一層の結びつきを計るべく、そのための仲間の組織「全都実・池袋」を発展解消させ、本年、春「池袋野宿者連絡会」と名称を改め再出発をしてきた。「池袋連絡会」の構成メンバーは池袋の野宿者、元野宿者で占められている。その意味では、新宿連絡会とは違い、当事者組織と堂々と名のれる都内唯一の団体としてある(質的にはかつての「新宿闘う仲間の会」の延長線上にある)。もちろん、池袋連絡会を、「いけとも」の支援者の方々や新宿連絡会が支える構造にはなっており、池袋の運動全体はそれらの総合体として確立されている。このように、ある意味では特殊な団体であり、その特殊さ故に誤解や混乱を招いているようだが、私達は地元の仲間が地元の仲間を支えていくことの重要性を知っているが故に、過度な組織介入は避けて来た。
池袋連絡会は昨年の越冬闘争の延長の中から、ようやく定期的な炊出し(月二回)を開始し、池袋駅周辺や豊島区で野宿する仲間を自ら支えていこうと奮闘してきた。池袋の仲間は、支援が弱い(外部の者が過度な介入をしない故に)という点を仲間の力で克服しながら定期的な炊出しをほぼ独自の力でやり抜いている。また、福祉行動、豊島区との交渉なども独力で役所との関係を作りあげ、それなりの成果をあげて来たと言える。もちろん毎週のパトロールも仲間中心に様々な支援者の力を借りながら貫徹し抜いている。
この構造はこの構造で池袋の独自性としてこの一年の中でほぼ定着したものと考えられる。
他方で、組織作りの点では当事者組織故の人間関係上のトラブル等で、核となるメンバーが増えたり減ったりを繰り返すなど、まだまだ反省したり、強化したりする部分は多くあるだろう。
池袋の仲間は何かを呼びかけ行動する時の力は相当のものであるが、他方、日々の仲間関係が定住層が相対的に少ないなどの理由により希薄となりがちという、背反する側面を有しており、そこら辺の困難な課題に直面しているとも言えるだろう。
池袋の越年越冬はこの課題をいかに克服または、克服の方向性を見い出すのかという点が問題となる。新宿などと比較する事なく、また運動のコピーではなく、豊かな発想力と仲間の力によって独自な組織の方向性を獲得すべく、池袋の仲間には奮闘をよびかけたい。
付記、全都実運動の破綻と反省点
私達は九八年二・七西口地下広場火災以降の運動展開において、全都野宿労働者統一行動実行委員会を作り、都内運動団体との共同戦線で対東京都への要求行動を作り出して来た。
連絡会としての共同戦線作りは、単に勢力拡大という意味ではなく、東京都の対策が地域対策(新宿西口対策)へ偏向していた誤謬を糾し、全都対策への変更を求める母体としての位置があった。それは強制排除などのかつてのような誤った「対策」を新宿はもとより他地域においても二度とさせないための担保でもあり、戦術でもあった。
すなわち、都単独の判断や、区単独の判断に対応をまかせるのではなく、都区共同という明確な枠組みを作らせ、これをもって「対策化」させる事で「強制排除」の危険性を排除させて来たのである。
が、全都実が掲げた「自立支援センターの早期開設」が昨年末ようやく実現されるや、本年に入り、今後の運動路線をめぐる各構成団体の意見の相違が浮き彫りになった。都の「ホームレス白書」の評価も違った。緊急一時保護センターの評価も違った。そこでの議論は、とどのつまり「強制排除」の危険性を一般的に語る事により、新たな東京都の新たな方針は評価できないというものであった。
それでも全都枠が実質仲間に認知されている主体であり、運動方針上の期待はともかくとしながら、団結力を示す場に集まる枠組みとしてこの共闘関係があったが故に、私達は五・一メーデーまでは要求の妥協点を見い出しながら、枠組みを維持して来た。
その後、新宿連絡会、池袋連絡会が「ホームレス自立支援法」制定運動の方針を内部的に決め、全都実会議で今後の共闘団体の運動方針として提起したが、それは了承を得られなかった。得られなかったばかりか、六月国会院内集会において、一部団体により「集会破壊」的な行為が行なわれた。このような経過の中、自らの運動方針を貫く事こそが必要であり、要求水準を下げた統一行動は今後の運動に取って障害になると判断し、全都実という枠組みの凍結を申し出た。連絡会の当初の目的は都区共同事業の確定として達成されていた。統一戦線でたたかう課題が統一しなければ、自ずからその枠は不用となり、やがて運動のためには桎梏となる。私達はそう判断した。運動の団結形態としてはもちろんこれは一歩後退である。が、それをあえてしなければならない程、事態は深刻なものであった。
もちろん全都実構成団体は、それぞれ独立した運動団体であり、それぞれの地域特性や出自に伴う独自性を有している。私達はその「違い」までもを統一しようと思った事はないし、そのような事は今後も方針化しないであろう。これは全体の運動方針をめぐる問題である。私達は「法案」制定運動において都内の統一戦線を別個作り、また、全国における統一戦線も新たに作り出したよう、同じ運動的目標をもった者とならどのような団体とも共闘する。全都実という旧来の枠組みは崩壊した。が、その後退を補ってあまりある都内および全国的な関係性は私達は新たに作り出した。
具体的な運動戦術をめぐる共闘はシビアなものである。私達は旧来の枠組みにこだわらず共にたたかう仲間を今後も見い出して行きたい。
全都実の総括をすれば、要求運動を共に行なう事において一致したものの、その戦略、戦術と云ったものの議論が深化されず、ある意味で「なあなあ」で過ごして来た事が今回の事態に陥った最大の原因であろう。各構成団体も、それぞれの全都実に対する位置付けすら明確化せずに、地元の運動と全都実の運動を分離させてしまっていた。日常活動などの密接な関係に胡座をかいた緊張感のない「寄り合い所帯」でしかなかったのである。
他方で仲間の意識からすれば、他地域と運動として交流し、共にたたかう勢力としての全都実は、自らの団結確認の場でもあり、有効に作用したと考えられる。
様々な方針上の違いがあったとしても、それぞれが一致できる部分で一日共闘していく場もまた仲間の団結確認のために今後も必要ではある。その意味において私達は全都実の母体ともなった新宿メーデー集会、デモを、そのような位置付けをし、都内の他運動団体に呼びかけ、広い観点で行動を継続させて行く必要があるであろう。
三、今後の課題
このように、私達は本年は昨年以上の行動、昨年以上の発想でもって、仲間の希望をたぐりよせるたたかいを展開して来た。
東京都が新たな対策に本格的に乗り出し、国会に「ホームレス法案」が上程され、それをめぐる様々な議論が巻き起こされた。また、私達の組織も、旧来の路上拠点維持にとどまることなく、路上から脱せられる制度、政策を求め、拡大、拡充させる大衆行動を軸に、そのための具体的な仲間への支援、地域での組織化など、この新たな動きに連動しながら、私達の領分を広げて来た。
これらの動きは得てして失業率五・四%時代、野宿者の全国的な急増と云う、全体の情勢に埋没しかねない事かも知れない。けれど、私達はだからと云ってまた初めから運動をする訳ではない。運動の蓄積に乗り、そこからの前進をつかみとって行くだけである。
その意味では、本年の私達のたたかいは次へのステップの大きな足掛かりをつけたとも言えよう。九五年の四号街路地下道での取り組みが、その後の路上支援活動のほとんどを示唆してきたよう、本年は転換期を迎えんとしている今後の仲間の未来と、運動の在り方の方向性をようやくつかみ取ったと言える。
九八年火災以降の私達の「飛躍」は、混迷もありつつ、けれども着実に前進している。
私達は、他の人々がいかにも「今」ホームレス問題が発生したかのように議論し右往左往する立場を通り過ぎ、その「解決」のため社会が何をすべきなのか、このことまで提起できる主体へと成長した。
運動としては円熟期に入ったという事でもあるが、私達はそこに決して胡座をかくことはしないし、そのことはことに戒めるべきであろう。運動の原点、そして歴史、更に今苦境に強いられている仲間一人ひとりの「目」、この事を忘れず、その上にいるという事を自覚しながら、更なる運動の前進を計っていかねばならない。
全体状況を考える時、今必要な事は東京都、特別区に施策の「動揺」「後戻り」を決してさせない事である。社会問題の質が大きくなるにつれて、かつての青島、今の小泉、磯村(大坂市長)のように、乱暴、かつ単純な論理構成を持ち出す輩が行政内部、政治内部から発せられる事がある。緊急一時保護センターや自立支援センターなどが事業内容として仮に「失敗」するような事があれば、これらの人々は急激に頭角を現わしてくる。
そのためにも、現行の三事業計画が完成するまで東京都福祉局の現行の路線を徹底して擁護していく必要がある。東京都単独、もしくは特別区単独で動けなくさせる事、「ホームレス白書」路線を都の政策として私達の側からも確定させて行く事、これが「強制排除反対」などと抽象的なスローガンを一本調子で語るだけにとどまらない、そのための具体的な戦術である。
この擁護とは、東京都などに勝手に施策をさせるにまかせるという意味ではない。改善、改良のたたかいはいくらでもできる、そして、これらの事業に参画した仲間を私達が外部から支えることもいくらでもできる。そういう構造を作りあげる事こそが、この状況にマッチした私達の新たな行政闘争のスタンスとなる。現在も東京都、新宿区とは「建設的な議論」ができる関係が維持されている。都区事業を否定した上での提案ではなく、それを肯定し、そこから何を派生させるのか、という点での提案はいくらでも出来るし、また、民間におけるその種の「実験」なども、保証人提供などの例もあるよう、これもまた可能である。
もちろん、私達は運動団体であるので、「対策の拡大、拡充」というそのスタンスと批判精神、そして大衆基盤を維持させながら、事業への参画などは他団体(NPOなど)をこしらえる、他団体(NPOなど)と協力するなどをして、事業に責任を持って深く拘わる必要がある。この全体の構成の中で、東京都の方針を支持し、拡大を計らせて行く事が重要である。
これと深くリンクしながら、他方で私達の大きな任務である、仲間の組織化、仲間作りという点に関しては、旧来の「路上およびその周辺のみ」から、「路上から墓場まで」を貫く様々な領域に拡大させて行く必要がある。私達の組織化というのは、単なる組織勧誘とは違う。「顔」と「顔」の関係、共に「何か」をやる関係、共に「助け合って」いく関係を路上から地域へ広げると、いう意味である。孤立分断された人間関係ではなく、貧しき民が、この時代に生き延びていける「つながり」「人間関係」を層として、路上、地域の中に広めていくという事である。なかなか見えにくい課題であるものの、私達は路上で出逢った何千名もの仲間の「顔」を覚えている。何千名もの仲間の「つながり」を知っている。この大きな財産を、路上から脱する事で失う事なく、再び路上に舞い戻る事のないような貧者のつながりを、広く作りだして行く必要がある。これが私達でできる野宿の防止策でもある。
そして、今後、制度政策要求の最大の柱となるのは、臨時国会で果たせなかった「ホームレス自立支援法」の制定である。国会、そして政府を動かして初めて私達の「ホームレス問題の社会的な解決」という究極の目標はそのとば口に入る。私達はまだ東京都を動かしたレベルでしかない。新たに地方などから続々と野宿者がやってくるのは、まさに国の責任以外の何ものでもなく、雇用対策、社会保障、防止策などを真剣に考えてこなかったことの結果が今の状況へと至っている。
私達は「法制度化」をもって国に縛りをかける事こそが、主体的には何もやらないこの国(政府)の姿勢を変えて行く唯一の具体的な方法であると戦略化し、大衆運動としては、オーソドックスな方法で国会に対する「法」の要求運動を筋道たててたたかってきた。しかも、抽象的な要求ではなく、「民主党案」という案文をひっさげての行動である。
「民主党案」は次期通常国会で審議入りがなされなければ、自動的に「廃案」となる。その意味では次期通常国会はこのたたかいを更に大きなものにしていかねばならないという事である。
この間、報道先行で様々な情報が飛び交って来たが、政治は常に流動するという事を私達は国会行動の中で学んで来た。一つひとつの報道や情報に即反応する事なく、一つの路線をはっきりと打ち出しながら進んで行く必要がある、という事である。私達は「民主党案」を支持して来た。もちろん、国会内部において、他党との修正協議はあり得るものの、その場合でも、この法案の基本骨格を崩さないというのが前提条件で支持を続けて来た。その観点は今でも変化はない。「民主党案」は唯一のホームレスに関わる「法案」として今も生きている。これを支持し、これを通過させて行くために私達の運動はある。私達は永田町の論理や政治評論レベルの立場で運動をたてている訳ではない。いくら厳しくとも、この「法案」の支持を訴え続け、制定を実現させて行く事が私達の当面の大きな目標である。
「民主党案」すら支持しない人々が、与党三党が「ワーキングチーム」を作ったことに触発され、危機感を持ち、ありもしない「排除法案」の危険性をことさらに騒ぎたてているが、これらの議論はまさに政治評論レベルの議論でしかない。私達はこれら政治的な議論が好きな人々とは一線を画し、「民主党案」を認知させ、国会の場で通す運動を続けていく。
四、本越年、越冬闘争の位置
本越年越冬闘争はかくなる情勢と運動主体の中で展開されていく。
越年越冬闘争の原点は言うまでもなく「仲間の命を仲間の力で守りぬく」ことにある。「守りぬく」方法は様々であり、これはなにも医療活動などに限定されるものではもちろんない。生活保護や冬期臨時宿泊、緊急一時保護センター、自立支援センターなど既存の施策につなげたり、利用していく方法はもちろんのこと、仲間のつながりを更に強固にしながら、互いに支えあう関係を作り出すことも仲間の命を守りぬく方法である。運動方針を明確にし仲間に将来の希望をつかみ出そうと呼びかけ運動を作り出す方法、また、娯楽や文化活動もまた同じくである。冬というモノトーンの季節をいかに仲間を孤立させず、また消耗させず、また絶望させずに、運動が全体として前に進むか、この事が結果、仲間の命を仲間の力で守る方法となる。
その意味では、私達は八年来の蓄積、そして本年の運動の前進という武器をもっており、かつて痛烈に自己批判した時期を経ながら、一段の飛躍を勝ち取ってきている。もちろん、油断は禁物であり、連絡会運動のターニングポイントは常に越冬期に起こってきた事(九四・二・一七、九六、一・二四、九八、二・七)を私達は決して忘れるものではない。ここにおいても、私達は常に原点に立ち返った活動を行なうのみである。
越冬期は、前段、越年期、後段と簡単に区分できる。私達はすでに前段において、医療相談の強化、パトロールの冬期見直しと強化、毛布の配付、冬の対策一覧の情報提供などを行なってきている。
本年は私達の要求運動の成果として、旧来の『準更生施設的「さくら寮」、一月からの四回受付の2週間宿泊「なぎさ寮」』冬期計5回の受付体制を変更させた。既に十二月から「大田寮」の受け付けが毎月行なわれるようになり、また、二十日から二週間宿泊の「さくら寮」が開始され、また、年明け早々の四日から「さくら寮」受け付け、一月十日から二週間おきの「なぎさ寮」受け付けと、一〜三月の越冬後段期においても、毎週一回、多い時は二回、いずれかの寮の受け付けがある(トータルで冬期に十六回の受付、述べ五八〇名以上の宿泊枠確保)という、冬を越すには効果的な受付に変わった。それぞれの仲間が自らの生活スタイルやニーズに即して入寮日を選択できるという事であり、新たな行政施策の使い方を私達は早くから仲間に訴えて続けて来た。
もちろん、越年期はこれら行政施策、生活保護行政が閉じる関係上、私達独自での取り組みが中心となるが、越年明け早々から、これら施策の緊急避難的な使い方を積極的に仲間によびかけていきたい。
そして、冬は仲間が流動する季節でもある。新しい仲間との交流、関係作りを積極的に行ない、冬場、仲間が生きる術を仲間と共に共有し、また実践として示しながら、共に生きる希望を見い出す私達の事業への主体的な参加を促して行きたい。
越年期の班体制などについては、昨年を継承して行なう。私達は、本年も運動力量を無視した冒険はしないし、パトロール体制も昨年よりもより原則的な範囲における体制を取る。
他団体との連携も、山谷越冬実、山谷の仲間とのこれまでの炊出し等における関係を維持し、共に作業をし、全都の仲間が共に年を越す仲間のたたかいの一貫として新宿越年をたたかう。
例年に準じた通常の取り組みの他、12月から開設されている緊急一時保護センター・大田寮の面会激励行動を越年中に池袋の仲間と共に取り組む、また、冬期臨時宿泊所「さくら寮」の仲間、生活保護世帯の仲間に「餅つき大会」への合流をよびかけ、路上と寮内を貫く大きなつながりをこの越年期に作りだしていきたい。
(詳細については、スケジュール表などを参照)
また、越冬後段については先に述べたよう、例年以上に活用範囲が広がった行政施策、生活保護の利用をよびかけながら、路上に残らざるを得ない仲間への、とりわけ、雪、雨時の緊急対応(臨時パトロール)などを集中して行なうと共に、医療相談、福祉行動などの日常活動を強化し、最大の厳冬期を乗り越えて行きたい。
要求運動的には、大田寮などへの工作、改善、など東京都との交渉を寮の仲間と共に続けると共に、一月、通常国会開会と同時に、「法案」制定の第五次キャンペーンを再開し、春の国会闘争にむけた気運を作りだして行く。
希望ある春をつかみとって行く、その意味では本年の苛烈なたたかいの延長として、私達は運動線を越冬期に分断することなく、一つの流れとして、本越年越冬闘争をたたかっていくつもりである。
冬場の「闘争」という言葉は、仲間が厳冬の中、生きるための「日々のたたかい」を続ける事、そしてそれを支えて行く事を表現している。それは季節とのたたかいだけを取っても過酷なものである。そして「勝利」という二文字はどこを探しても得られない「たたかい」でもある。が、それでも私達は、地道に、時には激しく、時には静かに、この路上の冬を潔く迎えたいと思う。
五、おわりに
社会が変わらねば変えてやる。これが私達のたたかいである。その道のりがいくら遠く思えても、私達は路上に運動の灯を点した主体として、決して諦める事はない。路上でのたうちまわりながらでも、前へ行く。そのためには私達は何でもする。「生きる希望」に貪欲な仲間の視線を浴びながら運動を進めようとする私達には、どんな高尚な運動理論も運動原則も無用である。型にはまった運動をするよりも型を破る運動を希求する。私達は飛び越えなければならないからだ。変革を求める運動が「原理、原則」で保守的にあってはならないからだ。
「我々は未来を語ることなく、常に現状の課題とのたたかいを強いられて来た」
「我々には未来を語り、未来に責任を持つことが必要だ。過渡期としての路上からの発展の経路を我々は我々の言葉で語り始めなければならないし、そのためのたたかいに立ちあげらなければならない。それは、行政や学者が語るのではなく、我々運動体こそが責任を持って語れることであろう。」(第四回新宿越冬基調より)
これが、かつて提起し、そして毎年私達が噛み締めている、連絡会運動の最大の総括視点である。
現状の課題とのたたかいはもちろん必要であり、それが運動の基盤となる。が、そればかりに固執していくならば、偏狭な運動にしかならず、また現状維持だけで精一杯な運動体にしかならない。
小泉改革、緊縮予算の「痛み」を押しつけれたままでは、いかに路上に豊かなコミュニティがあろうとも、それに甘んじる訳にはいかないし、社会の支えなどいらないなどと強がる事など出来はしない。社会から放置されている事を私達は良しとしない。共に生きる社会(行政も含めた社会である)を私達は目指す。
確かに私達の主体力量は現状維持だけで手一杯ではある。けれども現状に振り回された事により、私達は数多くの悲劇を目の当たりにして来た。排除とのたたかいなら排除のたたかいだけに固執し、何でも排除反対に結びつける。対策要求なら対策要求だけに固執し、対策がすべてかのように結びつける。これらをもっと総合的な視点で考え、かつ未来という私達の戦略から導いていくような手法の運動が、現状に振り回され易い路上の運動だからこそ必要なのである。総合的な対策という用語を行政は使うようになったが、私達も総合的な運動でこれと対峙していかねばならぬという事である。東京都が対策の体系を編み出したように、私達も運動の体系を編み出していかねばならないのである。反対だけの運動、抗議だけの運動、コミュニティを確認するだけの運動という時代はとうに過ぎた。そこから先を私達は私達の現場の感性、仲間の利益から導き出し、それを行政にやらせる、もしくは自ら行なうなどの方向性をもたねばならない。未来にとことん責任を持つ運動主体でなければ、私達と仲間との信頼関係など一夜のうちに崩壊するだろう。
だから、こそ、私達はひたすらな前向きの姿勢を取り続ける。そして、そのため徹底した議論を各方面に投げかけ続ける。
連絡会が連絡会である限り、この道程は後戻りができないものである。仲間が生きる希望をつかみ取るまで、そして、「でっかくてあったかい人間関係」を作りあげるまで、私達は路上から社会(自らも含め)を撃ち続ける。それが私達の唯一の役割であると考えるからである。
(了)