中央公園の悲劇

 私たちが新宿中央公園を炊き出し拠点に選んだのは98年2月、あの死傷者を4名も出した西口地下広場大火災の時からである。
 新宿連絡会の歴史は94年の強制排除事件という「事件」を端に発した組織であるからであろうか、それ以降も幾多の「事件」「事故」というものを経験している。94年には「ホームレス連続殺人事件」があった。96年には再び大規模な「強制排除事件」があり、98年には前述した大きな「火災事故」。テントが1件焼けたとか、少年に石を投げられたとか、ちょっとした傷害事件があったとか、そんなものでは全然もはや驚かない程、私たちは路上の悲劇というのは新宿の地で見続けて来た。その都度私たちは運動を建て直し、事件や事故に巻き込まれた仲間を支え続け、はい上がるよう今日まで来た。
 そこへ1・19の爆弾事件である。
 確かに人的、空間的な被害というのは過去の事件、事故と比較すれば小さい方かも知れない。一人の仲間が手足を吹き飛ばされ重体になっただけとも言える。
 が、その爆弾がたまたま周りに誰もいない時間帯に爆破しただけで、爆弾が仕掛けられたとされている時間帯には私たちのパトロールも行われており、またその夜には救世軍の炊き出し、次の日の朝には「横田チャペル」の炊き出しがありと、中央公園に仲間が多くの集まる機会は幾らもあった。そんな場所で爆発しなかった事だけが幸いであるが、仲間一人の被害で済んだのはまさに「偶然」意外のなにものでもなく、仲間が盾になり多くの仲間を守り犠牲になってくれたとも言える。
 かつて私たちが経験した「事故」や「事件」は因果関係というものがある程度解っている。「事故」や「事件」を引き起こす側の人々がいて、「被害」を受ける人々がいて、そこに何らかのつながりがあり、何らかの理由がある。その理由が許せるとか、許せないとかの判断もできるし、「被害」を受けないようにするための防衛策というものも、完全ではないにせよ取ることも出来た。
 が、今回はまさに不意打ちであり、私たちの問題でもなく、因果関係も何もかもが理解出来ない無差別テロである。
 私たちが何故?という言葉を幾度発したとしても、その回答はどこにもない。闘病中の仲間を支え、快復を祈るだけしか出来ない。頭の中が空虚なのである。何がどうなっているのかさえ解らないのである。
 もちろんこんな卑劣な犯罪はどんな理由があったとしても許されるものではない。これは一般的に言える。犯人に同等の苦しみを味合わせたいという気持ちも押さえる事は出来ない。が、私たちには報復する相手も見当たらず、怒りを空回りさせるしか出来ない。これは苦しい。かつて味わった事のない心情である。
 そしてそこへ来て24日深夜のテント村火災である。事実として爆弾事件との連続性はなく、失火が原因とされており、しかも延焼したテントも含めて負傷者はいないのであるが、爆弾事件で騒然としている中央公園の夜に起こったこの火災事故はパンドラの箱を開けるよう「不安」を徒に増長させてしまった。
 手足を吹き飛ばされた仲間、丸焼けになった村の残骸、想起されるのは悪夢ばかりである。ここも安住の地ではない事を中央公園の住民は私たちと共に再び静かに考えるのである。
 新宿では貧しき民の「村」が無くなるという事を幾度も経験している。4号街路もインフォメ前も、過渡期としての「村」ならば永遠というものはない事は誰よりも理解しているつもりである。もちろん、今回その事も含め選択肢に入れざるを得ない状況になるかどうかは不明である。
 私たちはホームレスが被害にあった事件なので抗議集会をしようとか、この事件を逆手に義援金を募ったり、排除反対のキャンペーンを張ろうなどという「左翼政治家」のような発想には立たない。被害にあった仲間の無事を祈り、そして、風向きをじっと見ながら沈黙をする。
 無論私たちは行動するときは徹底的にする。私たちは掛け声やスローガン先行の団体とは違う。そして仲間に不確実な不安を与えない。行動をする時は事実に基づき颯爽と行動に移す。

 が、私たちは今は事態の沈静化をさまざまな領域において行っている。憶測や危機感で動くべきではないという判断だからである。マスコミ報道の勇ましさに比して連絡会が何をしているのかが解らない方々が多いと思うが、私たちは私たちの拠点の場で起こった一連の事故にあたって、真っ先に現場に赴きさまざまな対処と情報収集を確実に行っている。もちろん基本線の運動や越冬後段の基礎活動を着実に行いながら。そして、新宿の仲間達は一連の騒動の中でも動揺を押さえながら上足立つ事なく確実に生き抜いている。
 
 何が起ころうとも私たちはそれを克服しながら前へと歩んできた。今回もおそらくそうなることだろう。爆弾で手足をもがれた仲間も闘い、奇跡の生を勝ち取った。私たちは何があろうとも闘い続ける。過剰な心配は無用である。
 
 *意識不明だった仲間は23日奇跡的に意識が快復した。何事があろうとも諦めない彼の闘病の姿こそが新宿そのものである。