ダンボール村なき後の新宿事情底辺下層に組み込まれた労働者が たどる最下層の還流点−番外編 笠井 和明 1、新宿という街 「…新宿が銀座と違ふ所は、銀座程服装に制限されない自由さがある。銀座の夜の街では、印絆纏を着た人、労働服を着けた人は何んとしても、あのペーブメントを歩いても威張れず、何となくさういう人に銀座の街灯は相応しないものであるが、新宿の灯は労働服を着けた者、印絆纏を着た人にも華やかに輝く。これが新宿の特色で、さういう人達に自由な気分を与えてゐる所に、新宿の繁栄はある。以て新宿の物価が安く、食物が豊富で安いのも解る所以である。而して、これが本当の街であって、あらゆる階級の人が交響する所に本当の街の生活はあるのである。」(「自由な新宿」生田葵) 今から68年前、昭和5年に創刊された雑誌「大新宿」には、このような知識人の新宿賛美の声がちりばめられている。 日本一の歓楽街歌舞伎町、西口の超高層ビル街、南口のサザンタワー、現代の新宿は副都心という名とともに変遷し続けている。眠らぬ街、不夜城と呼ばれる新宿には人が途絶えることはない。Wカップでは数万の若者が集い歓喜の声をあげる。20世紀末の最後の楽園か爛熟した消費文明の末路なのかは知らぬが、この街にないものは一つもない。新宿の人波にもおそらくいない人はない。大衆という名に相応しい人々をこの街は日々吸い続け、吐き続けている。 「勿論、今の新宿は混乱そのものである。統一がなく、気品がなく、いたづらに雑駁で、洗練されたところはない。それだけに、荒々しい強い生気が搏動してゐる。一見粗野で、荒削りでrusticなところから、恐ろしい強い力と命が溢れてゐる」(「新宿の今昔」白石実三) そう言われてみれば、新宿という街は昔から何一つ変わらない街である。変わったといえば、その雑駁さから、あらゆるものを受け入れてきたその不統一の規模だけである。 盛り場は昔から底辺下層の生きる場所である。盛り場は訳ありな人々を雇い、訳ありな人々が営み、訳ありな人々が働く場所である。学歴や履歴書が必要な世界ではなく、シマを仕切るやくざ屋が象徴するようなアンダーグランドの世界だ。そして、それだけに「恐ろしい強い力と命が溢れ」る場所なのである。町中の商店街とは位相を事にする歓楽街ならではのいきいきとした、そしてまたどろどろとした生命力がここには宿り続ける。 新宿の街に野宿者が居る。この事実は、新宿の歴史から言えば当たり前の事実である。逆に言えば野宿者のいない新宿の街はもはや新宿ではないとも言えよう。それが、良い、悪いという問題ではなく、この歓楽街の隠れた構成員として、僕らの友人達は歴史上ずっと居つづけてきたし、おそらく、これからも居つづけるであろう。 2、新宿と野宿者達 90年代に入っての新宿野宿者の急増は、下層を吸収しながら巨大になった新宿の街から、最下層が急激に排出された結果である。西口の都市開発が一段落して建設日雇労働者が、新宿のサウナ、カプセル、ドヤから排出され、景気の悪くなった飲食店からは流しの板前や皿洗いがクビになり、住込みのパチンコ屋の店員も、風俗店のポン引きやら、チラシ配りやらも整理され、アパートをあてがってもらっていたカンバン持ちも追い出され、果てまたチンピラ屋もシノギがなくなり、手配師稼業も苦しくなり、あるいはヤクやシンナーにはまりすぎた中毒者であったりと、「いらなくなった」人々は、ここでは情け容赦なく整理、淘汰される。もちろんそういう仕事がまるで無くなった訳ではなく、依然としてこの街は底辺下層を吸収する力は相対的にもっているのだが、そもそも不安定の建設業、サービス業末端が、ますます不安定となれば、金のなくなった不幸な人々の行き先はやはり野宿生活である。 新宿の野宿者の基本構成は、まさしくこれである。建築だけの街でもないし、歓楽だけの街でもない。雑駁な都市下層の生業を集合させた乱雑な街であるが故、下層はこの街に寄せ付けられる。 話しがそれたが、新宿の街には野宿者を排出する根拠が歴史的に存在するという事が言いたいのである。ドヤがある、サウナがある、カプセルがある、ラブホテルがある、映画館がある、深夜喫茶がある、マクドナルドがある、電車もいくらでも走っている。これが新宿の街で、金があればどこでもシケこめるが、金がなくなりゃ、公園や路上で野宿。これが新宿の街である。 新宿のこの街は、底辺下層を吸収し、そして最下層を排出し、そしてまた吸収しと、そんな循環構造を街自身がもっている街であり、それなくして今の新宿の繁栄はなかったであろう街である。野宿者はこの街の構成員だというのは、そういう意味である。 不幸な事故をきっかけに、西口地下広場のダンボールハウス群は集団移転という結末を経て消滅した。新宿ホームレス=西口地下ダンボール村というステレオタイプの考え方をお持ちの方々は、この突然の事態を受けてパニック状態になったようで、中には運動もなくなったのではないかと誤解している方もいる。もちろん、ダンボール村ひとつ無くなったくらいで由緒ある新宿の野宿者が消え去るということはない。だから、今も運動は日々続いている。 ダンボール村なき後、新宿の野宿者居住形態は大きく変った。駅周辺では定住型の居住が極端に少なくなり、流動型=夜間のみの野営スタイルがほとんどを占めることとなった。村の仲間で自立支援センターへの入所を希望しなかった人々は、周辺の公園などへ移住し、被災を受けなかったその他大勢の仲間は、今も夜間だけダンボールハウスを作って西口、東口のビルの谷間などで寝、西口地下の流動型の仲間は交番裏の一角で、深夜の集団野営を続けている。このように、今も駅界隈では600人近い仲間が野宿をする。 村がなくなり、しばらくしてから、僕は気が付いた。村にこだわりすぎた結果として、夜間だけ寝場所を求める流動型の仲間の事に思いが至っていなかったことを。 まあ、それでも新宿賛美者の一人である僕などは、新宿にやはりこだわる。 富久町という、地上げ屋にあって町がボロボロにさせられた町が新宿から歩いて20分くらいのところにある。今、地元の人は町起しに精を出しているようだが、ここにもまた我らの友人達は、だれも住んでいないマンションなどの敷地に入って 5-6人が寝ぐらを作っている。聞いた話しによれば、フランスの建物占拠よろしく、誰も住んでいない一室に勝手に住んでいる兵もいるとか言う。廃墟の町とホームレスというのも、なかなかのセッテングであった。 曙橋の下の児童公園もまた10人ほどの友人達がほぼ制圧をしている。ここいら辺、新宿区の旧四谷区側は、さすが、四谷鮫河橋からの伝統ある底辺下層の町、町並みの中にも昔をしのばせる家並が結構残っている。もちろん戦後の建物であるが、区画整理されていない曲りくねった道であるとか、町名の複雑さなどは、戦前をそのままひきづった感がある。 旧淀橋区側で、下層をしのばせる地域は、かなり少なくなってきている。が、新宿4丁目あたりと西新宿6丁目近辺は僕の最も好きな場所。残念ながらここら辺にはあまり仲間はいないものだが、その代わり4丁目のわずかに残ったドヤ街は生活保護の仲間が多く住む。 ダンボール村が無くなってしょぼくれてる人々には是非、新宿めぐりをすることを勧める。この街は下層の宝庫のような街であり、そして、それが街の雰囲気と違和感なく溶け込んでいる不思議な魅力をもった街であるからだ。 「これが本当の街であって、あらゆる階級の人が交響する所に本当の街の生活はあるのである。」 (了) 1998年6月「ダンボール村通信10号」掲載 |
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