2024年8月、新宿連絡会が結成されてから30年の節目を迎えます。
この特設サイトは30周年を記念して、昔の懐かしき資料や写真を順次公開し、私達の30年の足跡を辿りたいと思います。
連絡会前史 「路上から撃て」
30数年前と言えば、バブルが崩壊し日雇労働者の街「寄せ場」を中心に、失業を理由にした野宿生活を余儀なくされた労働者が増え始めた頃。東京も山谷地域、上野、浅草、そして全国一の繁華街がある新宿でもその波は一挙に広がった。まだ「ホームレス」と云う言葉が一般的でなかった頃、山谷の地で日雇労働運動を地道に続けていた活動家達は、その変化にいち早く反応。社会の一大事との認識のもと、「人民パトロール班」を組織し、それまでの山谷地域のみならず、上野、浅草、池袋、高田馬場、新宿、澁谷地区にパトロールに赴くこととなった。その報告がこちらのパンフレット。
1993年(平成5年)の山谷越年越冬闘争終了後に発行。
31年前の92-93越年期、新宿では西口広場、4号街路、中央公園を中心に300名近い路上生活者が確認されている。
その頃、毎晩のよう各所にパトロールに赴いていたが、新宿で受けた「衝撃」と云うのは今でも鮮明に覚えている。山谷の街中で、自ら日雇労働に従事しながら、仲間を組織し、組合のたたかいも続けて来た視点からは、まるで異質に見えるな世界。開けっ広げな近代的な街中でのコンクリートの上での路上生活。
この「衝撃」と「疑問」から
新宿独自のたたかいは始まったのだと思う。
このパンフの各報告に通底しているのは「労務支配」をいかにして打ち破るのかと云う、きわめて労働運動的な視点で、この問題を解明しようと試みている。今読み返してみると、
大変懐かしく、そして、まだ若き硬直さ(人パト班の面々は当時皆20代)を残していて、それもまた面白い。
日雇労働者、寄せ場労働者、飯場労働者の「棄民化」に迫る貴重なドキュメントでもある。
続く
古い写真を整理していたら、上のような一枚の写真が出て来た。1993年7月、山谷の労働者福祉会館前から人民パトロールが出発する時のスナップ写真である。
その活動の主体となるのは寄せ場で働く日雇労働者。大きなずんどうに「おじや」をたんまりと入れ、リヤカー乗っけて、さあ元気よく出発!!。悲壮感は何もなく、「仲間のため」「仲間と共に」を合言葉に、夜遅くまでリヤカー引っ張り、炊き出しを配り、チラシを渡して話を聞いたり、時には酒盛りにつかまり、班員が帰ってこないなんてのもザラであった。
若い組合員や活動家は、そんな中で、鍛えられ、労働問題だけではない、福祉の問題、医療の問題、人生の様々な問題を考えさせらたものだ。
もう一枚、こんな写真も、
これは何をしているのかと云えば、城北福祉センター(当時は都山谷室の直轄機関)の宿泊援護を求め、前の日からずらりと並び、そのまま寝込んで朝を迎えた労働者の列である。当時、バブル崩壊後の失業問題は、寄せ場ではそんな状況になっていた。 仕事がない労働者は、炊き出しや援護を求め、どこも行列。
他方、当時、外国人労働者 とりわけイラン人出稼ぎ労働者が 集まる場所として上野公園、代々木公園があった。バブル期の労働力不足を補うため、建設業やサービス業で彼、彼女らは働き、休みの時、公園に集まり、情報交換などをするのだが、それが「異様な光景」として社会問題となって行った。
労働組合の立場からすると外国人労働者との連帯と云うのはひとつのテーマであり、小さな労組や市民団体が労働相談やら生活相談も各所で行われるようになった。また、不法滞在問題や、入管問題も注目されることとなった。
山谷から上野公園へ通うこととなったのもこの頃、そして、原宿駅前で外国人労働者との連帯、排斥を許さないとマイクを握っていたのが、「澁谷・原宿 生命と権利をかちとる会」の若きリーダー見津毅(1995年交通事故で亡くなる)であった。この頃、山谷からは原宿のデモなどにも参加し、連帯を深めていたのが「縁」にもなり、その後の新宿連絡会の形成の一翼を担うこととなる。
バブル期の絶頂から、一転してバブル崩壊の嵐。外国人労働者や日雇労働者など多くの人々が社会からはみ出され、失業問題がクローズアップされ、そして、仕事がなく野宿を余儀なくされる日雇労働者。住み込みの寮や飯場から出された建設労働者やサービス業の労働者。寄せ場のみならず、都内各所で瞬く間に社会問題になった。
戦後の「浮浪者問題」が、ほとんど忘れられたこの頃、突如目の前に現れた失業野宿者の群に世間は驚き戸惑うが、「我が我が」の風潮の中、それはやがて「排除」や「排斥」に傾き、行政も政治もそれに追随する。
そして、労働運動や社会運動、そして当事者達は、「それはないだろう」と、世間や行政への反発を強めることとなる。
最後に当時の浅草の看板。当時はこんな風に思われていたのである(まあ、今も胸の内はそうなのかも知れないが……)。
続く
そんな中、新宿駅から都庁に続く4号街路で大規模な「強制排除」、忘れもしない「2.17事件」が発生した。
東京都がこれに踏み切った経緯の詳細は知らされていないが、商店街などで作る「西口振興会」の苦情と云うか、要請と云うか、そんなものも背景の一つであろうが、収容施設「大田田寮」を用意し、新宿区福祉に街頭相談実施も要請し、当日実施し、収容所の移送も行なうと云う、準備周到さで、とても一部局の独断で出来るものではない。なので、東京都が初めて実施した「路上生活者対策」と記録されても良いものであろう。東京都はお膝元の路上生活者を目の敵にし、もはやそれは異常であった。「2.17事件」から2年もの間、1996年1月「動く歩道」建設を名目に物理的に排除するまでの、とにかく徹底した「強制排除策」は目に余るものであったが、都議にせよ、文化人にせよ、それを問題にする人はとても少なかった。メディアにしても「ホームレスVS行政」を面白おかしく報じただけで、まるで見せ物のようであった。
この写真は1994年1月2日の収容施設「大田寮」、当時は山谷対策の越冬施設であったが、この時から「2.17」のため、裏手にプレハブ棟を新設している。この敷地は東京都の土地で、しかもまわりに住民などいない「僻地」なので、好き勝手なことが出来たようである。
「2.17」」がどれだけ衝撃的であったのか、当時の新宿を知らぬ人には実感が沸かぬだろうが、すべてはここから始まった。
こちらのレジュメはその後の経緯と抗議文などをまとめたもの。 こちらは「反撃の2.17」と銘打って1年後に抗議集会をした時の基調。
1994年3月18日 都庁へ抗議行動
1994年3月18日 都庁内での団体交渉
使い棄てられた上に、ゴミ扱いされた労働者の怒りは、とても深かった。
続く
こちらは1994年連絡会結成までの各種要望書やチラシをまとめた資料集。
こちらは「新宿闘う仲間の会」のチラシ。
新宿の現場では「新宿闘う仲間の会」が10数名程の当事者の核で結成され、諸活動を精力的に担っていた。 チラシは、やられたらやり返していくため、団結を呼びかける「紙の爆弾」である。 当時はとにかくアナログ。がり版はもう廃っていたが、ワープロと手書きで版下作り、そして、当時公民館などにあった「リソグラフ」や高田馬場にあった学生向けの格安コピー点で大量印刷。一回の印刷で1000部ぐらいであったろうか、 そのチラシをもって駅周辺はもとより、公園や周辺部まで、区内のあちこちに出向きパトロール、巡回の日々。 そして当事者の団結をみせつける集会やらデモ、役所への押しかけやら、交渉やらを毎週のよう行なっていた。
その団結力が、 このような集会(新宿駅西口地下広場インフォメーションセンター前)の様子(写真:木暮茂夫)。西口地下を埋め尽くす多くの仲間が結集し、思う存分、その怒りの力を表現した。
続く
ホームレスが組織だって都庁に抗議をしたのは、1994年3月18日の「都庁抗議行動」が最初のようである。当日のお昼のニュースで実況中継のような報道がされ、そんなこともあり大きく世間を騒がせてしまった。1994年3月18日、テレビ朝日「ザ・ニュースキャスター」の番組を引用。当時の世間の驚きと騒ぎようが良く分かる。
ちなみに、この後期待すべき何かは起こらず、都庁内福祉局に突入し、現場で団体交渉。抗議、申し入れを行なうも、福祉局は何ら反省もしておらず、その足で建設局に行くも、入り口を「かんぬき」でふさぎ一歩も中に入れぬと云う事態。何の進展もなく、奪われた荷物だけはその後、都庁付近の倉庫から奪還し、この日の行動は終了した。
下の写真が都庁の有名な「かんぬき」。こんな無礼なことを躍起になってするから、後に怒った仲間が窓ガラスをたたき割ったりと、そんなこともあった。
メディアの報道が多くなったのもこの頃から。もちろんそれ以前から、当時はホームレスと呼ばれていなかったが、「寄せ場」やターミナル駅周辺では野宿を余儀なくされた人々が群をなしていた。バブル崩壊は、建設業、サービス業など末端の労働者の切り捨てから始まった。東京の「寄せ場」山谷の変容をテーマにした番組がこちら。1993年2月21日に放映されたTBS報道特集「さんや冬物語」。それまで取材を受けていなかった「山谷争議団」が珍しく取材を受けた番組。
ここにあるよう、日雇労働運動は、急激に進む失業(アブレ)の嵐、手配師でさえ仕事がなく、寄せ場から、そして飯場から多くの労働者が各所で大量に野宿する姿にの戸惑いながら、けれど、野宿していても、失業していても、同じ仲間であると、その労働者としての尊厳を最大限尊重しながら、「反失業闘争」の方針を取ることとなった。大阪の寄せ場である釜ケ崎もまた同じ構造であり、「日雇全協」(日雇労働運動の全国組織)も同じく「反失業闘争」の旗を掲げることとなる。「救済運動」とは一線を画した、失業者、野宿者による、失業者、野宿者が生きるためのたたかいが、この前後、大きく発展していた。
そこへ「新宿の2.17」である。底辺下層労働者の一大失業問題には手をうたないばかりか、仕方がなく野宿をしている場所を狙い撃ちした都庁は、怒りの格好の標的になった。
日雇労働運動と云うのは意外と堅実なものである。騒ぎたてることだけが目的ではない。どれだけの仲間を組織するのか、そこにとにかく重点を置く。そのため活動家は現場に入る。一緒に野宿をする。彼等の生活の場も一緒に居る。そこで様々な相談に乗り、方向性を見つけ、共に実を取るため、たたかう。代理糾弾みたいな「代行屋」はしない。 とにかく仲間の利害に立脚し、共にである。まあ、そこに力を注ぎ過ぎ、共倒れになるようなことも多々あるが、それもまた修羅の道である。
新宿闘う仲間の会は「日雇全協新宿支部」と名乗り、全国規模の「反失業闘争」に合流することとなる。その後、新宿連絡会が結成。「屋根と仕事を」をスローガンに、現場での行政闘争、仲間の組織化を続け、そして、それのみならず全国の仲間と共に制度、政策要求運動へ登りつめることになる。
当時の新宿闘う仲間の会の寄り合い風景(写真:木暮茂夫)。こんな小さな寄り合いが、やがて大きな渦になる。
続く
連絡会が30年目であると、行政の「路上生活者問題に関する都区検討会」(都区検討会)もまた30年目となる。
立場は違えど、我々と同じく30年もの長きに亘り「路上生活者対策」に力を注いで来られた行政の方々には労をねぎらいたい。
当時を知る行政の方々は、ほとんどが退官し、中には亡くなられた方も多いと聞く。
当時は激しく衝突ばかりをしていたが、「喧嘩する程仲がいい」との格言通り、数々の攻防や衝突があったからこそ、互いの理解が深まったとも言えるだろう。まあ、そこら辺の感覚は当事者でなければわからないと思うが…。
こちらは1994年 新宿区への抗議行動の写真(写真・木暮茂夫)。
新宿福祉事務所に対する抗議やら要請やらは、この頃から始まった。
「月曜日の台東福祉事務所、金曜日の新宿福祉事務所への福祉行動」は「名物」と言われる程、当時、福祉行政では語り草となっていた。
失業して仕事がなく、路上生活を余儀なくされ、かつ東京都から執拗な追い立てやら嫌がらせを受けている。頼れる身内も居らず、助け合う仲間が居て、何とか生きている。
こんな人々が地元の福祉事務所に行くのは、権利として当然なのであるが、当時の福祉行政は、その圧倒的な失業者の群の前に、何らの対策も立てられずに無力であった。そんな中、「そこを何とか」、高齢の仲間や病弱の仲間を率先して福祉にかけてもらいたいと、そんなところから福祉行動は始まっている。
対策方針も
法律もなかった時代、新宿福祉事務所は人命尊重を掲げ、異例の「医療単給」をとにかくかけ、医療へのアクセスを増やし、あとは「トリアージ」。厳しい人を優先させ入院や保護を推進する。当時の寒竹係長は施設不足のため毎日のよう施設の開拓に出かけ、山谷での「ドヤ保護」も強力に進めていった。福祉行動が終わってから山谷への帰り道、山手線の中で係長とばったり出くわすなんてことも良くあった。とても熱心な方であった。
もちろん、一福祉事務所の孤軍奮闘だけでは、どうしようもない。東京都と23区で、対策をと云うことで「路上生活者問題に関する都区検討会」(都区検討会)が、奇しくも都の強制排除の翌日、1994年2月18日から始まっていた。
そして、こちらが9月に発表された中間報告のような検討報告書
その翌年には都が学者先生方に調査依頼した「新たな都市問題と対応の方向〜「路上生活」をめぐって〜」を公表、そして、その翌年1996年に「路上生活者問題に関する都区検討会」(都区検討会)の最終報告書が確定した。
その1996年の1月に動く歩道建設に伴う強制排除事件が起こるので、この時期、東京都は新宿からの路上生活者の強制排除をせっせとしながら、自立支援や保護の対策体系を作ると云う「離れ業」をやった訳であるが、この報告書をまとめた委員の方々は(新宿区の深沢福祉部長を筆頭に)「排除ではない対策」を真剣に議論し、考えていたのが何よりも心強いものであった。 路上生活者対策の責任部署(当時)でもあった企画審議室の部長や課長さんは、知事やら建設局、地元商店街からの「排除ありき」と、福祉局や福祉事務所等からの「保護や対策ありき」との間で「板挟み」。とても大変であっただろう。
そんなお役人さまの苦労も知らず1994年の新宿は、こんな感じ(写真・木暮茂夫)。
再び当時のテレビ番組から。1993-1994年の年越し時の新宿、山谷の特集報道など3本。放映日は不明であるが、1994年初頭、JNNニュースの森、NNNニュースプラス1、テレビ朝日系ザ・ニュースキャスターからの引用。新宿福祉事務所の武山課長、山統労の「ゴンちゃん」など、当時のキーパーソンになる人々が取材に応じており大変懐かしい。下村さんは、元祖「福祉手配師」のような怪しきお方。当時は散々やりあったものであるが、今はどうしておられるだろうか?
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今はインターネットやら、SNSやら、YouTubeやらTikTokの時代で、宣伝やら連絡はスマホがあれば簡単に出来る時代であるが、1994年当時は、携帯電話すらまだ普及する前。運動で必要な、宣伝、工作、連絡、調整は活字。チラシ、ビラ、レジュメ、ニュース、申し入れ書、抗議文、陳情書などは、こちらの方は当時普及していたワープロで打ちまくった。
ビラ、チラシの発行は週に二回、三回。そんなことしている内に連絡会のチラシは定番になってしまい、あれから30年。毎週「仲間たち!」と呼びかけのチラシが発行され続けることとなる。こちらは1995年のチラシであるが、レイアウトなどは今のチラシとほぼ同じとなった頃。今はパソコンでページごと完全に作れるが、当時は本文部分はワープロ感熱紙。あと手書きと云うものであったが、小型の東芝Rupoとポータブルプリンターを駆使し、ダンボールハウスの中で寝泊まりしながら、現場で作ったりしていた。
1994年当時のチラシは「新宿ダンボール村 闘いの記録」と云う本(現代企画室 発行 19997年8月25日)に掲載されているが、そう云う古い本はもちろん今は絶版。なので、その中の1-2章(「動く歩道」問題発覚前のもの)だけ引きちぎり スキャンしたので、こちらも参考まで。右の方をクリックするとPDFが開きます。
活字ついでに、「闘う仲間の会」の俳人、富士森さんの自主出版歌集(1995年12月24日発行)なるものも古い資料の中から発見されたので、こちらもどうぞ。読めば当時の新宿の路上の空気感が蘇ります。富士森さんはその後、文芸誌「露宿」で 活躍したり、大手出版社から歌集も出版もしていますが、連絡会を手伝いながら、放浪の旅へと出てしまいました。放浪中の歌は発見されておりません。存命であれば今年96歳。酒と歌に溺れる仙人にでもなっているだろうか?
続く
連絡会結成
そう云えば30年前の夏も暑かった。その前年は記録的な冷夏の年で、今でも時頼思い出される「平成の米不足」でもあった。山谷の炊き出しはインディカ米や、小麦粉こねた「すいとん」になったりと、とても苦労したことを思い出す。そして、それが一転、今度は猛暑と水不足。「地球温暖化」「異常気象」の走りの年でもあったかも知れない。日照りが続きダムに水が貯まらないので、新宿中央公園のジャブジャブプールは中止、水飲み場も水がほとんど出ない。おっちゃん達の水浴びも洗濯も出来ないと、すったもんだもした。
そんな暑い夏の日に新宿連絡会(正式名称・新宿野宿労働者の生活・就労保障を求める連絡会議)、8月10日の日本キリスト教会館(早稲田奉仕園)での結成会議の決議をもって正式に発足した。
写真は、結成の呼びかけ文と、会場となった早稲田奉仕園。この早稲田奉仕園はつい先日、散歩がてら撮ったものである。つまり、当時の写真はない。ビデオもない。録音もまたない。本当にやったのかいと言われそうであるが、ごくごく限られた少人数で、かなり限定された宣伝方法で「極秘裏」に行われた。
何故少人数だったかと言えば、それは当時の運動状況。、せっかく3団体が統合され、一つの運動体になると云うのに、そこにどさくさ紛れに「好まざる人々」が入って来ては組織運営上困るからである。こう云う運動の内情を知っている方は理解してくれると思うが、一つの運動や組織が、社会からそこそこ注目されると、そこへ色々な思惑をもった団体やら個人が入り込んで来るのが普通である。それを「好ましい」と思うか、「好ましくない」と思うかは、介入しようとする団体や個人の政治的傾向にもよるのだが、明らかに貧しき人々を政治利用しようとする団体や個人はすべからくお断りしようと云うのが、連絡会結成当初からの(笠井、本田、見津、そして、当時、現場で翻弄されてしまった仲間の会の共通する)考えであった。
なので、とにかく結成を急ぎ、そして、結成したから、新宿野宿者jを代表する団体であると豪語をした。そして、これまでのよう排除に反対するだけでなく、対策をしっかりと求めようと、地元新宿区に対する「総合要求闘争」が、結成後すばやく開始された。
日本キリスト教会館(早稲田奉仕園)は、見津の関係だったか、それとも山谷労働者福祉会館山谷伝導所の関係であったか、あまり思い出せないが、この当時、色々と会議室を使わせてもらったりしてお世話になった。明治通りの都営バスに仲間が大挙して乗っかって移動をしたものである。日本キリスト教団と云えば、笹塚にある城西教会の徳永五郎牧師との出会いも思い入れ深い。城西教会には連絡会の毎週の会議に集会場を貸してもらえ、そこで様々な議論をしたものである。見津が交通事故で亡くなった時、その葬儀の会場にも貸してもらえた。徳永先生も炊出しに手伝いに来てくれたり、夏まつりで、亡くなった仲間に弔辞を読んでもらったりもした。その後、徳永牧師も隠退し、今年の始め92歳で高齢者施設で亡くなられたとのことである。生涯通し、在日外国人、沖縄、野宿者の人権擁護に奮闘した方であったが、活動家風ではなく、とても物腰が柔らかく、優しく、そして、愛のある牧師さんであった。 下の写真の真ん中が徳永牧師。何かの集会の時、記録係が野宿の仲間を撮ったものだが、その真ん中に写り込んでいた。飾り気がない、野宿の仲間とも同じ視点で語りつづけていた先生らしいお姿である。
さて、連絡会結成からは連日のよう情宣活動、カンパ活動、そして新宿区に行ったり、都庁に行ったり。
7日後に山谷の玉姫公園での「山谷夏まつり」があり、ここには新宿の仲間も大挙参加し、山谷の仲間に新宿連絡会結成の報告をした。その時の立て看板の写真が残っている。連絡会の対外的なデビュー戦でもあった。まあ、仲間の会の面々がカラオケ歌って楽しんでいただけでもあったが。
こちらは連絡会結成4日後の「合同リクレーション」(親睦会)。新宿駅西口地下のインフォメーションセンター前。
フォークゲリラ以来と云われた西口地下広場の「大騒動」は、こんな感じで始まった。
この年の新宿での「夏まつり」は、涼しくなった9月に新宿中央公園じゃぶじゃぶ池広場で開催された。実行委員長の見津毅がプロデュースした最初で最後の夏まつりであった。
この写真、94年のものではないような気がするが、雰囲気はこんな感じであった。
今では考えられないが、救済の対象、単に抗議をするぐらいの連中ぐらいにしか思われていなかった社会の最底辺で暮す野宿の当事者が、新宿連絡会として支援者としっかりと結びつき、団結をしてしまった。そして「総合要求闘争」だと大風呂敷をかかげ、都庁のみならず、区役所にまで押しかけ、団体交渉。交渉が決裂すると、今度は区議会にまで行き、集団で傍聴。「陳情書」まで提出。区役所の真ん前や新宿駅西口地下広場で炊き出しまで始めた。
まさに、どうすることも出来なかった運動のダイナミズムである。その場に居たものしか感じられない貴重な経験を、我々は野宿の仲間と共にした。支援者もダンボールハウスを作り、そこで生活を共にし、事務機能もほとんどが路上。まさに「傍若無人」であった新宿連絡会は、そこから30年も、この地で転がり続けることになる。
連絡会結成後の新宿(写真・木暮茂夫)。
続く
94年8月の連絡会結成から、第1次越年越冬闘争までの歩みは1995年に制作した「新宿HOMELESS」のパンフレットが詳しい。 新宿区との交渉、東京都福祉局との交渉、仲間作りのためのレクリエーション、資金集めのためのカンパ活動、仲間の命を守るためのパトロール活動や福祉行動。今思えば、怒濤のような一年であった。
越年越冬と云えばこんな写真が出て来た。94年12月22日の日付があるので、その週の12月25日(日)から「炊き出し」を定期的に開催するとのお知らせである。それまで「炊き出し」は、集会とかデモとか行動の時に、山谷で炊いた飯を持って来るとかをしていたが、当時は教会系が多かったが、他団体のような定期的な「炊き出し」はして来なかった。満を持してと言おうか、その日から、白飯に生たまごを載せた「新宿飯」が開始された。ここからなんと、毎週日曜日の「炊き出し」、そして「おぎりパトにロール」の食事提供行動が30年間、欠かさず行われることになる。年末年始もまた毎年欠かさず行われることになる。当時はまさかこんなになるとは思いも寄らず、毎週山谷の城西福祉センターに皆で行き、薪を割って、ドラム缶のかまどで米を炊き、車に積んで新宿まで運び続けた。
こちらはその年の秋の「街頭相談」。受付に座る武山課長とマイクでご対面。
これは誰が撮ったのか、福祉行動中、新宿福祉事務所で救急車を呼んで一緒に病院へ。
そして、インフォメーション前での越年越冬闘争。毎年年末になると欠かさず来て下さる「さすらい姉妹」の路上劇はこんな昔から続いていた。
おなじみ、「ささやん」が一杯やって弾けないギターで一曲披露。(写真・木暮茂夫)
マニュアルも出て来ました。初めての越年越冬。自分で言うのも何ですが、その緊張感と真面目さが見てとれます。
中央公園のロハ台(ベンチ)。
当時のテレビ番組から1995年1月放映。NNNニュースきょうの出来事「激白ホームレス人生 新宿地下街年越物語」 。当時の雰囲気が良く出ている。
1 995年と云えば戦後50年の年、この報道後まもなく、「阪神・淡路大震災」が起こり、その支援にも駆けつけた新宿連絡会事務局員・見津毅が春先バイク事故で亡くなり、悲しみに暮れている内、「地下鉄サリン事件」など、一連の「オウム事件」がありと、とても騒がしく、そんな災害や事件の中、ホームレスの諸問題は世間から忘れ去られ、いつしかホームレスと云う存在が都会や繁華街の日常になってしまった年もあった。
青島幸男が、その後の悪魔の仮面を隠し都知事になったのもこの年だった。
続く
その後 1995年
1995年、景気がどん属になるのに比例し、路上生活者は各地で増え始めていた。山谷、新宿以外でも多くの失業者が路頭に迷い、段ボールの小屋を建て、都市の真ん中で生き始めた。東京の方が仕事があるだろうと、地方からも多くの人が押し寄せたが、これまで多くの失業者を吸収してきた建築業や「寄せ場」の機能も合理化、機械化が進み、そしてバブル崩壊の中、新規の仕事はほとんどなく、あてがない人々が「寄せ場」の枠を越えて各地で滞留することになった。
当時のテレビ番組が好評のようなので、もう一本、94年から95年にかけての取材。放送日は不明。日本テレビ系「ルックルックこんにちは」と思われる。元のビデオに標記がなかったので違ったら申し訳ない。
ここら辺から好奇心一辺倒のマスコミの世界でも「ホームレス」 とは普通の人で、「時代の被害者」であると、されるようになったようである。ここに出てくる「ケンちゃん」は、その「普通らしさ」を持っており、新宿ホームレスの代表のような存在であり、また4号街路の良き相談役でもあった。彼のような存在が世間の偏見を変える力があったのだろうと、懐かしく思う。他の仲間たちも、明けっぴろげの、様々な出自を持つ、まあ、楽しい仲間達であった。
こうやって世間の空気が少しづつ変わるのであるが、東京都は一行に変わらない。
越冬対策の「なぎさ寮」で二人の仲間が相次いでなくなったことを受け、真相究明と寮の改善を求めるたたかいが開始されたのは95年の3月。
当時は絶望的に施設不足の時代でもあった。
伝統的な山谷の越冬対策は、年末年始は仕事がないので、その間だけ施設に入所してもらおうと云う典型的な日雇労働者対策でもあった。山谷に戻れば日雇仕事があった時代に設計されたものであるが、そんな時代ではないのに、それを踏襲して路上生活者対策も「越冬対策」を、今度は排除の一時的な受け皿として設計してしまった東京都は袋小路に入ることとなる。なにせ、それだと根本的な解決にはほど遠い。
当時の越冬施設の様子はこんな感じ。右の写真は新宿御苑の入り口にあった「さくら寮」の内部写真。プレハブ小屋に布団引いて雑魚寝をさせる。昭和の時代の「飯場」のような施設。
連絡会が施設問題、宿泊問題に注目をし始めたのはこの頃でもある。当時の更正施設であるとか、宿泊所であるとか、民間の簡易旅館も含めてとにかく調べまくった。越冬施設のような季節限定ではなく「仮設住宅」のようなものを求めて行こうとなったのであるが、その道はとても険しかった。100名規模の施設を作ってもすぐに一杯になることは明らかであった。その後、紆余曲折がありながら「自立支援センター」に辿り着いたのは幸いであるが、他方で生活保護の方は民間の劣悪な宿泊所がはびこり、それはそれで問題になっていった。自らの力で運営すると云う方向性もその後出てきたが、それもまた苦難の連続で、とてつもなく大きな問題がその先にあることを、当時ははあまり認識していなかった。
さて、その3.15闘争は、都庁に押しかけ、都庁内でデモをし、都民広場で飯を食い、警官隊と衝突し、4名の仲間が逮捕され、新宿署にも押しかけたり、ハンストをしたりと、今思えばかなりはちゃめちゃの行動であったが、こうまでしなければ東京都は変わらない。その日の記録画像をたまたま見つけた。が、音声が何故か入っていない。編集もなにもしていないので延々に続くビデオであるが、興味のあるお方は自分で適当なBGMでも入れてごらん下さい。よくよく見ると、「山谷争議団オールスターズ」の面々で、音がなくても、知る人が見れば、とても壮観な絵である。それぞれ、とても人望が篤い活動家達であった。感謝に事足りない。
まあ、この年は都庁に毎週のように押しかけた。(写真・木暮茂夫)
新宿の仲間を徹底的に排除しようとする4号街路「動く歩道計画」が、青島の「都市博中心」のとばっちりとして浮上したのもこの年である。
動く歩道関連のチラシ 右の方をクリックして下さい。
新宿連絡会の自主ビデオ「動く歩道に異議あり!」
95年12月 ジローさん死去 涙の松ちゃん(写真・木暮茂夫)
そして、東京都の「強制撤去」との本格的な実力攻防が開始される。(写真・木暮茂夫)
続く