路上からの提言(1999年5月)
「路上生活者問題」に関する私たちの見解と政策提言(ダイジェスト版)
<目次>
はじめに
第一章「路上生活者」の現状
1-1東京における「路上生活者」の概数(略)
1-2階層的(質的)な構成と根拠
1-3「路上生活」の困窮なる生活(一部略)
第二章「路上生活者」のニーズ
2-1「上からの救済論」批判
2-2アンケートに見るニーズ把握(一部略)
2-3ニーズの充足の努力と手段
2-4旧来型貧困概念と方法論からの転換(略)
2-5ニーズを充足させる方法論について
第三章「路上生活者対策」の現状分析とその評価
3-1「路上生活者対策報告書」の評価(略)
3-2現行の行政サービス(略)
3-3生活保護と他施策の位置づけ(略)
3-4自立支援事業の現状と課題(略)
3-5労働・衛生・住宅施策の検証(略)
第四章政策提言
4-1「路上生活者対策」体系の整理
4-2「自立支援関連施策」に関する提言
4-3労働・住宅・衛生分野に関する提言
4-4生活保護関連施策に関する提言
4-5「不法占拠」対処に関する提言
4-6課題的な提言
おわりに
はじめに
何らかの独力では解決できない理由により、安定した居所や生活基盤を失い、路上や公園での生活を強いられている人々が私たちの都市社会の中に多数存在するという事実は、もはや誰一人として目を背けられない現実として様々な視点から問題視されている。
バブル崩壊後にとりわけ顕在し始めたこれらの人々は、当初、その数が比較的少ない頃には「好きでホームレスをやっている」世捨人のように考えられ、社会にとっては特異な人々と印象づけられていた。が、平成不況が深まり、都市部の各ターミナル駅や近接公園または河川敷などで生活する人々が急増してきたという事実は、次第に何らかの社会動向と連動しているのではないかという疑問を社会に植え付けて行った。好奇な視点のマスコミも、これらの人々の実情を深く追う視点に変わり、また、貧困は撲滅したと考える学者も戦後の社会福祉や社会政策が果たして十分であったのかを反証し始め、都行政も環境浄化や強制排除という排除策ばかりでは何等の解決にもならない事を経験で知り、社会的な施策の道を模索し始めた。(もちろん現状においては、これらの人々をめぐる問題を実証に基づかない偏見で暴論的に語る人々がいない訳ではない。とりわけ直接的な「被害」や「迷惑」を感じている商店主などは利害関係を有している関係上、極論に近い主張をもつ人々も多い。)
私たちは、これら「路上生活」をせざるを得ない人々を、「社会の役立たず」であるとか社会から排除すべき特殊な存在であるとは考えない。これらの人々も私たちと同じ社会の構成員であり、私たちと同じ都市生活者であると考える。問題であるべきは、これらの人々が極貧状態ともいえる生活を余儀なくされている事実であり、路上や公園など人が住み得る環境ではない場所に住まざるを得ないという事実であり、その結果、多くの生命がいとも簡単に路上に消えていくという悲劇である。私たちはこれらの“不幸”は、我々の社会が克服すべき課題であり、社会の力を最大限投入すべき課題であると考える。
「貧困の撲滅」が言われて久しいが、90年代において都市に急激に現出した貧困形態は、私たちが作る社会の未熟さを物語っている。社会が社会として構成されるには、現実的には能力などの違いによる個々人の生活の格差があるのは当たり前のことである。あえて言うなら、富める者が贅沢な暮らしをしたっていいし、貧しい者が質素な暮らしをしてもいい。が、社会の富を一身に独占するような貴族的な富豪が大いに批判され課税が重くなるよう、社会の不幸を一身に負いかぶさったような、残飯をあさらなければならない程の貧困は間違いなく社会が克服すべき対象である。競争社会であるからと言って、野放図な競争を放置することは、これらの人々の状態をさらに悪化させることとなる。憲法理念を持ち出すまでもなく貧しいにも限度というものはある。この限度を守れるのは社会の力だけであると、私たちは信じている。道端で人々が凍死することを防止できずに放置している社会、家のない人々が路上で暮らすことを防止できずに放置している社会、極貧状態の人々が残飯あさりすることを防止できずに放置している社会。私たちの日常にある都市におけるこれらの姿は、健全な社会の在り方であろうはずはない。
私たちは「路上生活」をせざるを得ない人々が存在する今の社会の現実に目を向け、その背景をさぐり、その社会(私たちも含む)的な解決を目指して行く立場から、「路上生活」の問題とは、都市において極端に尖鋭化した貧困問題=都市貧民問題であると考える。すなわちそれは社会が克服しなければならない社会問題であり、社会動向と連動した現象である。また、地方から都市への人口の流動や地方と都市の産業の偏在から演繹される背景をもち、都市部において現実的に突出している現象からすればこれは明らかに都市問題である。
私たちがここで使う「路上生活者」(これは東京都などが使う行政用語であり、私たちは通常「野宿労働者」または「野宿者」と使用するが、用語上の混乱を避ける意味からここでは、便宜的にこの用語に統一する)の概念は、厳格に言うならば、何らかの理由により安定した居所を失い、または離脱し、路上や公園など(車中や24時間喫茶店なども含む)本来居所として適さない場所を根拠に生活を営むことしか選択しえなかった人々の総称であり、いわゆる「狭義の(ありのままの)ホームレス」である。この概念の中には自らの意思で「路上生活」をしている人は含まれない。人生における幾つもの選択肢の中で、「路上生活」しか選択肢がない状況まで追い詰められた人々のことである。
私たちは「路上生活」を余儀なくされた人々が等しくこの社会の構成員として、極貧状態の生活から脱せられるよう、この諸問題を正面から論じ、真面目な議論をすることが必要ではないかと考え、筆を取った。いまだ偏見や極論をかざしている人々や具体的な情報すら得られない人々に論点を発すること。また、具体的な社会的解決に向けて、施策レベルにおいては現行策を吟味した上での不足点を指摘し、現実可能な提言を要望していくこと。これが、本「提言」の目的である。
偏見を捨て、一人の人間としての彼・彼女らのありのままの現実を直視してもらいたい。そして社会が彼・彼女らに何が出来るのかを考えてもらいたい。
この「提言」がそのきっかけになれば幸いである。
第一章「路上生活者」の現状
この章では、様々な民間団体が行なったこの数年の実態調査、および、行政内部において実施された最新の定性調査結果、そして、私たちが実施した94年調査および99年春に実施した最新の調査結果と、私たちの長年の運動の中で得た現場感覚などをベースに都内(23区内)における「路上生活者」の現状を多角的に提起していきたい。
私たちの現状分析の目的は、様々な理由により個人的な努力では解決不能の課題を背負い込んだ人間が、何故、いとも簡単に最低生活水準すら突破し、「路上生活」に至るのかという、社会的な分析である。そして、何より大事なことは、「路上生活」の中での困窮とは一体どういうことなのかという現状の分析である。
1-1 東京における「路上生活者」の概数
(略)
1-2 階層的(質的)な構成と根拠
「路上生活者」には多様な人がいると、最近よく言われる。もちろんそれに異存はないし、社会には多様な人がいるのはある意味では当たり前のことである。が、「多様さ」という抽象的な表現だけではステレオタイプ化の批判にはなっても、それではどのような多様さなのかという疑問には答えらない。多様さを言う人々は、建築土木の日雇労働者ではないタイプが「路上生活者」の中にはいるということを主張せんがため、このような表現を使いたがるようだが、「寄せ場問題の延長」か「新たな都市問題」かという議論は、両者を対立的にとらえることにより問題の本質を見失いがちである、と私たちは考える。ここではこのような瑣末な議論の方法を取らない。
もちろん「路上生活者」は多様である。しかし、その多様さの幅というものも自ずからとある。その点を論ぜずに多様さを言うと無限の曖昧さに行き着くだけである。私たちは少なくともその多様さの中には「路上生活」がライフスタイルとして人が取り得る形態ではないと考える。「路上生活」が、本人の意思で生活できるような形態でないことを、多様さを語るのであれば前提化しておかなくてはならない。
以上の前提に立った上で、「路上生活者」はどのような人々なのか、その質的な構成を次に分析してみることにしたい。その分析材料となるのは様々な民間団体や行政機関などが当事者へのアンケートや聞き取りなどを実施したものの総計である。
ここでのポイントは、どのような人々が、どのような主たる原因で「路上生活」へと至り、どのような「路上生活者」層を構成しているかであり、その意味では「路上生活者」を安易に生み出す社会の分析も含め、現状分析の入り口の部を構成する。
ここで使う主な資料は、以下のとおり。
1)94年5月新宿連絡会アンケート(94年連絡会調査)
2)96年3月都市高齢者生活研究会一斉調査(都市研究会調査)
3)冬期臨時宿泊事業検討会・路上生活者実態調査報告書「95年、96年度施設利用者実態調査」(検討会調査)
4)98年5月野宿者・人権資料センター全都調査(センター調査)
5)99年3月新宿連絡会アンケート(99年連絡会調査)
さて、これら様々な調査を踏まえて、より実相に迫ってみたい。
イ、「路上生活者」の性別、世代
性別は男性がほとんどである。年齢的、世代的には、94年以降のどの調査においても40代、50代の中高齢者層の割合が最も高く、次いで60代以上が続く。他方、20代、30代の若年層は相対的に少ない。
最近の傾向と語られる、女性の増加、若年層の増加は統計的にはどうだろうか?
女性に限った統計はないものの、東京都概数調査が女性の数値を97年から明らかにしており、それによれば97年8月上旬3682名の内女性は72名と1・9%、翌98年同時期で4295名中女性は117名と2・7%と、人数的には1年間で約61%増もしていることが分かる。全体からすれば女性の比率はまだわずかなものであるが、傾向的には間違いなく増え続けている。
他方、若年層の増加傾向はかなり地域的に限定されている(東京東部部分は西部部と比較して平均年齢は高い。隅田川地域限定で調べた平均年齢は山谷争議団の98年調査では61・5歳となっており、同時期調査のセンター調査全都平均55・1歳より5歳も高い)ものと考えられるが、20代、30代の全体からの割合も私たちの新宿・池袋地域での調査では、94年連絡会調査8・7%、99年連絡会調査9・2%と若干であるが上昇している。まだまだ大袈裟に言う程ではないものの、傾向としてはこのような数値が現れる。
もちろん、これらの若干の傾向はあるもののこの5年来、様々な調査から言えるのは、「路上生活者」の主たる性別と世代は、男性・中高年齢層である。
象徴的に言うなれば、いわゆるこれらの世代は「金の卵」と呼ばれ、この国の高度経済成長を担ってきた、かの世代が圧倒的に多いということである。
ロ、学歴、出身地、結婚歴、家族関係
また、学歴は義務教育終了(現在の中卒)が過半数を占め、高卒が18%弱、大卒以上が3-4%前後であるという統計が検討会調査で現れている。
プライバシーに関わる微妙な点だけに、この項目をあげるのは行政が行なった検討会調査だけであるが、95年度、96年度の施設利用者のこの数値はバラついておらず平均化しており、大枠はこんな感じなのだろう。
次いで「路上生活者」の出身は、検討会調査によれば、東京が約2割、他の関東が22・2%、東北北海道が25・1%、他の本州が17・6%であり、センター調査においても、東京を含む関東が41%、東北北海道が33%、他の本州は20%と、ほぼ似通った数値が出ており、東京も含めた関東出身者が最も多く、次いで東北北海道が多いと言えるだろう。
結婚歴については、検討会調査によれば、なしが48・5%、ありが31%であり、センター調査においても、なしが43%、既婚12%、離婚33%、死別が5%であり、ほぼ半々程度の数値が現れてくる。
家族単位で「路上生活」をしている者はごくごく例外的に散在するが、ほとんどが、単身者であり、結婚歴のある者も「路上生活」をする前に離婚や死別または家族の元から離れている。検討会調査では、家族との連絡の有無を調査しているが、家族との連絡ありは13%程度で、ここから言えるのは、家族が有ったとしても、多くは連絡しあう程の関係ではないということだろう。また、平均年齢から推測すれば、親の世代は死別し、妻子以外の関係では、兄弟関係しかない人が多いだろう。
ハ、「路上生活」に至る前の職業および居所
前の職業は、これもどの調査においても土木建築など建設関係に従事していた者が過半数を占め、次いで、サービス業従事者、工場労働者、警備員、事務系会社員、自営業、雑業などがあがっている。最新の99年連絡会調査では、建設関係60%、サービス業10・9%工場労働者10%、自営業6・4%、事務員3・6%、警備1・8%、雑業2・7%、その他4・5%となっている。その割合に若干の差はありながらも、建設関係が過半数を占め、次いでサービス産業などが続く構造は、おおまか94年来のどの調査においても共通するものである。
建設産業は周知の通り、単純労働者のみならず鳶や型枠大工、鉄筋工など技能作業者も含め、重層的労務下請関係の中で作業が行なわれる。土工であれ、技能作業者であれ、その末端部で働く人々のほとんどは日払い給与体系であり、いわゆる正社員は少ない。技能作業者も、その専門の仕事がなくなれば土工など単純労働に従事する層であり、単純労働であるか否かにかかわらず、その就労形態は建設業に特有な不安定さを常に抱えている。
次いで多いサービス業従事者であるが、こちらも一口で単純労働と技能職を分けて語れるほど単純な産業ではなく、飲食店や遊戯店、ホテルや風俗業などと、都市部歓楽街、飲食街の底辺に末広がりに広がる産業である。私たちの調査でいつもあがる具体的な職種は、調理師、居酒屋従業員、パチンコ店従業員、新聞拡張員、ホテル従業員、風俗営業従業員などであり、言うなれば人の入れ替えが非常に激しい(新聞求人欄にいつも広告をしているような)業種である。渡り鳥的な職人集団がこれらの業種に多いよう、従業員が店を転々とすることを前提として成長して来た業界でもあり、建設末端部の日雇層同様、いわゆる「貧困プール産業」でもある。
この観点から言えば、他の雑業部門や警備業、工場労働者部分における臨時工、季節工などを含め、人生の何らかの「失敗」で職を転々とせざるを得なかった人々が最後に踏みとどまる、これら建設、サービス、雑業など「貧困プール産業」を合わせて見ると、どの統計からも6割、ないしは7割の数値が現れる。
他方で、経営者、自営業者、事務職、会社員など、相対的には安定し社会的に信用のある部分から「路上」への直接の転落も、少数ながら常に存在していることは注目に値しよう。94年連絡会調査では自営業の割合が全体の4・8%であったものが、99年連絡会調査では6・4%に上がるなどの傾向はあり、貧困プール産業の縮小は、何らかの理由で「失敗」したあらゆる人々にとって、「路上」はより近しい存在になったということを暗示している。新宿にはかつて、元一流企業会社員や元大学教授など、世間常識から「まさか」と思うような人々が「路上生活」を過ごしていた。もちろん、これはあくまで少数であり、時たまマスコミによって煽られ注目されるだけであるが、「路上生活」は、不安定職についていた人々だけの専売特許ではない事は、「路上生活者」を生み出す社会の在り様を考える時に示唆を与えるだろう。
では、これらの人々はどこで働いてきた人々だろうか?都市研究会調査では東京が一番多く53・8%、次いで関東が25・4%、東京・関東以外は20・9%とという数値が出ている。
前記、出身地調査においても、東京が最多で、関東、東北が次いで多いのはどの統計においても明らかであり、それをも合わせて考えてみると、地方自治体がよく言う「路上生活者が他地域から流入してくる」なる被害者的な立場の議論は、まるで根拠がないことを示している。少なくとも、東京に生れ、または東京およびその周辺に就労目的で上京し、その場で、なんらかの職について来た人々が何等かの理由で「路上生活」を余儀なくされた姿が一般的であることが分かるであろう。
また、「路上」に至る前の住居はどのような形態だったのか? 99年連絡会調査では、簡易旅館(ドヤ)や飯場が43・1%、住込み寮が22%と、これら不安定な住居が65%も占め、次いで賃貸アパートなどが27・5%、持ち家(マンションも含む)公営住宅がわずか7・3%であった。
前述の「貧困プール産業」の不安定就労者、約6、7割とほぼ合致する数値であり、ここからもどの階層が「路上生活者」を一番多く排出しているかがうかがえる。
住居は、その人や家族の生活水準に比例し、生活水準の下降は、住居水準も下げると考えられるが、その下降の底には、職場と密接する住居が待ち受けており、その職場からの離脱が即住居の喪失につながりやすい訳である。
ニ、「路上生活」に至った要因
「路上生活」に至った理由は、これもどの調査でもアブレ、解雇などの失業が圧倒的に一番多く、次に病気・怪我、倒産、家出、借金などの順である。
99年連絡会調査では、失業56・4%、倒産11・8%、疾病4・5%、家出4・5%、借金5・5%、その他17・2%であった。
これはおもしろいことに行政が行なった検討会調査が失業の割合が77・6%と一番高く、次いでセンター調査が69・4%、99年連絡会調査が56・4%、と私たちが実施した調査数値が一番低くなっている。
ともあれ、失業や倒産など経済的な要因を理由とする「路上」に至った数を足してみると、検討会調査80%、センター調査74・1%。99年連絡会調査68・2%と全体の7、8割の部分を占める。
これに病気・怪我など、まさに「不幸」とも言える事態にあって生活基盤を喪失した人の列も加えると、はるかに8、9割の数字が現れる。
とりわけ何かとクローズアップされる家族の崩壊など家族問題や、借金をしての夜逃げなどを主たる「路上生活」に至った理由としてあげているのは、最大で1割弱程度である。プライバシーに関わることもあり、なかなかこれらのアンケートでは答え辛い面を最大考慮して、その他や無回答の数値を加算しても、せいぜい2割程度である。
もちろん、失業を理由とする「路上生活者」が多いからといって、ストレートに仕事を対峙すべき問題であるとは言えない。これらの統計から言えるのは、「路上生活」に至る大きな理由のうち、就労での「失敗」など経済的な側面が圧倒的に大きいということである。失業にも様々な形態や質があるが、いずれにせよ、何らかの人生上の「失敗」(外的であろうと内的であろうと)が要因であるということであり、その「失敗」により、経済的に前の生活水準を維持できずに「路上生活」に転落したということである。
イ、ロ、ハ、ニで見てきたよう、人々がどういうイメージで「路上生活者」を語ろうとも、ここで言えるのは様々な産業の主要には末端で働いてきた、ないしは様々な社会の構成の中で生きてきた、(就労が安定しない)低所得者層の人々が、主要には経済的な要因などによって、旧来の生活を維持し得ずに、「路上生活者」に転落した図である。つまり「路上生活者」層がどういう構成なのかと言えば、居住すら維持しえずに「路上」へと転落した最下層の極貧層を形成していると言える。また、その人々は、ある厳密に特定できる産業から発生するのではなく、「貧困プール層」を母体にしながら多種多様な部分からも転落をしている、というのが事実である。
共通項を探すとすれば、「路上生活者」は「路上生活者」として生まれるのではなく、以前の生活基盤を喪失して極貧層である「路上生活者」になるということである。
その喪失の仕方は色々あり、それこそ多様である。が、共通して言えるのは、失業など経済的要因による貧困形態として「路上生活」になる、ということである。資産家が「路上生活」になることはない。貧乏人がニッチもサッチも行かなくなり「路上生活者」になるのであり、この構造は極めて単純である。
次に「路上生活」に至る経緯をも含めた分析を若干してみたい。何故この社会は安易に「路上生活」を生み出してしまうのか?
「路上」に至る主たる理由の中で圧倒的に多いのが前述したよう、失業理由である。この理由は、今の時代において極めてリアルであるが、冷静に考えてみると、失業を利用に何故こうも簡単に「路上生活」を余儀なくされるのだろうか?という疑問もまた沸いて来る。この国の諸制度は失業=「路上生活」へと直結する(そんなに野放図な)制度とはなっていないはずであるからであり、山一証券が潰れても、その失業者は大量に「路上生活」化をしないからである。
制度面から失業理由をもう少し分析してみよう。
雇用保険や社会保障を受けていたのか否かは、以下の通りの統計が出されている。
日雇労働に従事していた(る)者には日雇雇用保険被保険者証(いわゆる白手帳)を持っている人が圧倒的に少ない。
94年連絡会調査では88%がもっておらず、検討会調査では94・3%、99年連絡会調査では98・5%がもっていないと、年度が新しくなる都度、白手帳保持者がいなくなる傾向が現れている。もちろん、持っていないから、失業しても雇用保険は受給されない。
99年連絡会調査によれば、自営を除く建設業以外の職業では、失業に当たり雇用保険の給付を受けたと答えた割合は、わずか16・2%であり、失職に当たり、雇用保険を受給した割合は建設業の職種もあわせ全体(自営を除く)でわずか6・8%であった。
他方で、退職金や解雇一時金なりを退職時に受けとった人の割合もごく少数である。同調査では、建設業従事者の内、退職に当たり失業し、退職金など手当てをもらった人は、同調査ではわずか3%、その他の職業では退職金や解雇手当てなどをもらった人は24・3%とやや多めだが、全体(自営を除く)で、これら退職金や何らかの手当てをもらった人は10・7%に過ぎない。
また、失職した状態、もしくは「路上生活」に至ってしまった困窮時に福祉事務所で相談した人は同調査で全体で20%いたが、その全てが、「失職状態では生活保護の適用にはならない」と申請もせずに帰らされている。
日雇労働者の場合、長期にわたる失業が雇用保険をもっていない者にとって「路上生活」へと直結しやすいのは自明の理であり、日雇いの失業対策、防貧対策としてある日雇雇用保険制度が機能していない、もしくは長期の失業状態に対応できない姿がここにある。また、それ以外の職業で日雇、パート形態以外のいわゆる常雇いにおいてさえ、解雇された場合の一時金なり、退職金なり、雇用保険なりが機能していない店や会社が圧倒的なのには驚かされる。また、失業し、頼る金もなくなり、生活保護の相談をしなかった人、制度そのものを知らなかった、また、相談しても断られたというケースは、公的扶助制度がこれまた完全ではないことを照らし出している。
これらの調査から、日雇労働従事者のうち雇用保険制度や日雇雇用対策などの諸制度から排除された人々、もしくは、これらの制度が現実に進行するアブレ状態に対応出来ない機能不全にあることの被害を受けた人々が失業と同時に「路上生活」になりやすい、と言い得るだろう。また、この社会保障制度との関係は常雇労働者においても言えることで、福利厚生や社会保険制度が完備されていない事業所から発生した失業者は「路上生活者」になりやすいと言える。もちろんそれには蓄えてきた資産や頼るべき人間関係、および家族の理解などの個人差はある。が、それすら断ち切れた時、その人は「路上生活」しか選択肢がない道へと至ってしまうであろうことは容易に想像はつく。「路上生活」になることが、それまでの生活水準の防衛には決してならず、転職につながる道ではないことは自明だからである。
失業などの「失敗」に対応し、貧困を防止し、再就職を促していく法制度が機能していない部分に暮らす人々にとっては、自力で解決が出来ない場合、その「失敗」が「不幸」に転嫁され、更なる「転落」が加速される。そんな構造が、これら統計資料からも見受けられる。
統計資料はないものの、病気・怪我、倒産、などの理由もまた、同じ問題につきあたることであろう。社会的な防衛線が得られなかった人々の転落の先の底に「路上生活」はあるのである。
もちろん、この問題の全てが社会保障、社会福祉制度の不備という点のみに帰結する訳ではない。失業を自力で防衛出来なかった人々が頼れるシステムがこの社会に何らかの形であったとしたら、これらの人々が「路上生活」を余儀なくされることもなかったであろうことは十分予測できるからである。
他方で失業を理由としない人々の場合はどうであろうか。いわゆる「自業自得」的な要因であるという前提でも考えてみよう。
今回の調査でも、ある自営業者が「浮気」が原因で、離婚騒ぎとなり、自分名義の資産を全て妻に譲渡する前提で離婚を決め、家出の格好で、飯場生活から「路上生活」に至ったという人がいた。これらのケースではどうだろうか?
この主体的な要因をどのようにとらえるのかで、「路上生活者」像も変わる。この問題を社会病理的に考える人々は、社会的要因より、この主体的な要因こそ重要であるとする。しかし、つきつめて考えてみると、「家族崩壊」や「借金」というのは社会全体の問題であり、この世界に限っての問題ではない。「浮気」をする人々は世の中いくらでもいる。また、それが発覚して離婚騒ぎになる人々もいくらでもいる。が、この問題で、一番肝心な事は、これらの理由(困難)を抱えた人々が、何故、こうも「路上生活」へと転落してしまうのか?という点であり、分析である。個人的に問題性のある人々でも、その行為が反社会的でない限りにおいて、この社会の中で生きていく権利を有しており、実際にこの社会の中で構成員として生きている。
これらのケースの人々に共通なのは、様々な困難を独力で解決できなかったという点であり、困難な問題の解決を目指しながら、結果的には経済問題以外であった問題も経済的な問題に転嫁され、他の選択肢を選びきれずに「路上生活」へと至ってしまったのである。
経過的に構図化してみれば、家主になんらかの責がある家族崩壊は、離婚、一家離散が即「路上生活」には直結はせず、その人は単身において、なんとか生活を維持しようと何らかの努力を積み重ねながらも、例えば住込みの飯場に入るとか、アパートで何らかの仕事につこうとする。が、その努力空しく、「路上生活」に至ってしまった訳である。ここから言えるのは、問題を抱えながら、少なくとも様々なレベルにおいて立ち上がろう、やり直そうとする人々に対し、最低限度の生活を維持しようとする努力をも理解しようとせず、「自業自得」であると突き放し、「路上生活」への「転落」を容認してしまう、といったレベルに私たちの社会があるのではないか、ということである。このように敗者復活ができにくい社会、敗者を冷たくあしらう社会が、「路上生活者」を生み出しているとも言えよう。
保障がない、もしくは少ない人々が失業という事態に至り、転職などの機会、条件が失われた時、生活水準の維持が出来ず、それに対するなんらかの防衛がされない場合に、人々は最低限度以下の生活に「転落」する。そして、それと同じよう、なんらかの理由により、現在の生活水準が維持できない人々もまた、それに対する防衛がなされない場合に「路上生活」へと「転落」をしていく。これが「路上生活」に至る主たる原因である。
もちろんこれらの分析は現象面に則した分析にしか過ぎない。高度情報化社会と言われる産業構造の変化など「路上生活者」を生み出す政治的、経済的、文化的な背景については、他先進諸国との比較も含めもっと具体的に探らなければならないとは思うが、それは学者などの今後の研究に待つとして、ここでは現状から表現される面のみの指摘にとどめておく。
1-3 「路上生活」の困窮なる生活
次に、これらの人々が一端「路上生活」に至った時、どのような困窮の世界が待ち受けているのかという点を上記統計資料などを使って論証してみたい。もちろん、これらの問題は統計資料的には現れがたい。そのため、より具体性を持たせる意味で、私たちが、この5年来のパトロール(夜回り)や、医療相談時、または通信物編集取材などで行なっている「聞き取り」から、具体的な当事者の言葉も随所に引用する。
視覚的に現れる「路上生活者」は、それを目撃した人や、安易なテレビ報道やルポなどの読み物、もしくは一部の人々たちの悪意的なキャンペーンによって私たちに「昼間から酒盛りをするお気楽トンボな怠け者」的なイメージや、「公園や道路を不法に占拠する無法者」というイメージを植え付けてきた。こうした「路上生活者」への差別視、異端視が、社会の果たす役割を軽減させてきた面は否めない。もちろん私たちも「路上生活者」は臭くないと言うつもりはないし、汚くないと言うつもりもない。また道路や河川、公園など本来居住に値しない場所に小屋などを作り生活していることも事実として認める。が、「怠け者」であるとか、「無法者」であるとか、ある種の価値観をもって語られる「路上生活者」像が正しいとはとうてい言い得ない。一部の人々が感情的に語る「路上生活者」像にまどわされてはいけないと最初に断っておきたい。
自分が見聞きしたことを全体的に吟味せず、感情的に語る人々に対して、「あなたは何人の路上生活者と会い、話をしたのですか?」と問えば、せいぜい嫌悪する現場を象徴的に見ただけで、直接話もしたことはない、という結論となるであろう(私たちは立場上この種の論争を現場で幾度となく行なったが、すべからくそうであった)。一部の感想を拡大して規定したがる傾向は、社会問題を語る場合には害にはなっても薬にはならない。最初からある種の偏見をもって語る「路上生活者問題」であってはならないのだ。
これらの「迷惑論」が大手を降るって闊歩するのは、「路上生活者」の実像についてよく知ろうとしない態度が、今の社会の風潮になっていることが大きな原因なのではないだろうか。もちろん私たちは、「人権問題だ!」などと声高に叫ぶ、左からの空論的なスローガンや啓蒙が必要だと言っているではない。現実に都市のあちこちにいる「路上生活者」との会話や一人ひとりとの関係から始め、想像力をより膨らませること、そこから「路上」へ至った人々の窮状を理解し、社会的な解決の道を模索していくこと。こうした態度こそ、私たちの社会に必要とされているのではないかと考える。
また、「路上生活者」の実情なり実態を語る時、往々にとられる安易な類型化を私たちは、ここでは試みない。安易に大した根拠もなく類型化をし、分かったフリをすることこそ、何も分かってはいない証拠である。対策の立案過程においてはある種の類型化は必要であるが、それはあくまで目安的なものであり、また切り口によっては様々な類型化が可能なのである。だから厳密に「路上生活者」を類型によって理解できる訳がない。類型化は、機会論的に考える人々にとって便利であろうが、一般の人々にとっては極めて誤解をうける代物である。
また、その対策立案過程の方法論に関しても、私たちは「路上生活者」の具体的なニーズをこそ重視すべきだと考えている。実態を分析し、類型化し、施策を上からつぎたす方法、ないしは、何が出来るのかをあらかじめ想定した上で、それに合わせて類型化をする方法ではなく、現実の困窮から発せられるニーズとその充足のための努力に適合した施策を探りだす方法論こそ、この社会問題の解決に関しては正しい方法論だと考えるからである。
「路上生活者」は決して無口ではなく、また研究対象のままで終わる存在ではない。彼、彼女らは主張をする存在である。「彼ら自身の剥奪状態を無権利状態として社会に告発する姿勢は弱い」などと言い「おとなしい路上生活者」をイメージ付けようとする学者も一部にはいるが、彼・彼女らを研究対象としてしか位置付けない学者の私的な感想(困惑)をこの問題にもちこんでもらっては困る。彼・彼女らは具体的な要望をもっており、それへの努力を押しげもなく発揮している個人の集合体である。上からよかれと思い押しつけられる施策が、いかに彼・彼女らの人間的発展の可能性を破壊しているかを反省し、これらの従来取られてきた「上からの発想」を転換しないところでは、あらゆる施策も無に帰すことであろう。
私たちはこう考えているが故に、「迷惑論」や安易な偏見で語ることはせず、また、この現状分析においてはあえて類型化をせず、ここでは、「路上生活」に至った人々を待ち受ける具体的な困窮を現象面に注目しながら記していくにとどめる。
イ、「路上生活」の不安
(略)
ロ、衣食住、生業の環境
(略)
ハ、外部からの排除圧力
(略)
ニ、利用される「路上生活者」
(略)
ホ、路上の果て、疾病、行路死
二重、三重の困窮の行き着く果ては、多少の想像力さえあれば容易に想像出来る。起こり得る事態の中で最悪の事態が、疾病、行路死という人生終幕の悲劇である。
「路上生活者」の疾病問題に関して、新宿などで路上検診サービスをボランティアで行なっている私たち医療班のメンバーでもある医療従事者はその経験にもとづき次のように記している。
『野宿者の肉体は、総じて実年齢より10年以上老いている。長年の肉体労働と野宿生活による疲弊のためと思われる。整形外科的な問題、ことに下肢の障害をもっている人が多い。栄養状態も不良または偏り、著しい衰弱を呈している人、生活習慣病(成人病:高血圧、糖尿病、疾風など)の悪化を呈している人が多い。また、不衛生な環境の影響で、皮膚疾患が多く、外傷は蜂巣炎化しやすい。医療のかかりにくさも反映して、一般に軽症で改善する疾患が、重症化することが多い。上記疾患の他に、胃炎は潰瘍化して出血し、慢性肝炎は腹水で腹がぱんぱんになるまで、白内障は失明するまでに至る。
横浜のドヤ街寿町で医療相談活動を十余年にわたって続けてきたある医療従事者は、「野宿症候群」を提唱している。様々な実感の伴う失調を呈しているが、医療機関各科の検査でも明瞭な異常はなく、慢性の全身的な不健康状態としか診断されず、対処的な投薬をされるのみだが、それでは改善しない。効果的な治療方法は「暖かく、柔らかい布団と衛生的な住居、食事、家族の愛情…生きている証」という当たり前のことであると』
(「新宿連絡会の医療活動について」)
『医療相談での印象を挙げると、まず、予想以上に病気が多様で、深刻な例が多い。風邪や頭痛、胃痛や腰痛といって一般的な症状の人々に混じって、肺結核や心疾患、肝硬変などの重篤な問題を(重篤させて)抱え込む人がせっぱつまって訪れる。結局、医療への近接性の悪さが問題を重症化させてしまっている。
これは、「住所不定」者に対する繁雑な医療福祉システム(更に、この医療システム自体が知られていないことにも問題がある)に基盤があり、その上に、医療福祉現場で過去に不誠実な対応をされた心的外傷が重なり、元来底辺労働者として生きる中で培って来ざるをえなかった、社会システムへの絶望感が増幅されて、形成されているように思える。問題を巧く表現できずに自嘲自罰的に抱えこんでしまう例が多い。(うつ病やアルコール依存者の背景にこうした自罰厭世的傾向があることが多い。)
栄養不良で全身衰弱、重症肺結核で死亡という、高度医療を誇る飽食日本で驚くべき例もあるのである。最低の生活・医療的支援があれば治るものが致命となってしまう。
高血圧や糖尿病などの成人病や、過去の労災や長い過度の肉体労働による筋骨神経系疾患や、慢性気管支炎、慢性胃炎、皮膚病など、慢性で長期のフォローアップが必要な病気も、医療の継続性や支持性が悪く、悪化する人が見られる』
(越智祥太「医療相談ー医師の立場から」)
これら、医学的に見られる傾向は、検討会調査でも同様の傾向として報告されている。また私たちの96年3月から97年1月までの医療相談記録と、97年厚生省の総患者統計(45歳から64歳まで)とを比較すると、高血圧で約2・1倍、糖尿病で約2・7倍、心疾患で約3・8倍、肝疾患で約18倍、筋骨格系疾患では約3・6倍と、一般水準よりも数倍の数値が出る。
いずれにせよ、生活環境の悪さと、慢性の疲弊など、「路上生活者」は「路上生活」ゆえに必然健康を害する状態に常に置かれ続けている。
これらの傾向は、福祉統計などでも鮮明となる。新宿福祉が扱った「住所不定者」の入院措置件数は93年度で242名、94年度で329名、95年度で266名、96年度で229名、97年度で212名と、ここ5年間平均すれば毎月21名もの「路上生活者」が入院をする程重い病状に侵されていた事が分かる。新宿区内の「路上生活者」は連絡会概数調査で98年5月段階で928名であり、そこから比較しても20%を軽く越しており、かなりの高率と言えよう。
また、入院も含めた生活保護申請件数は、93年度706名、94年度1527名、95年度1906名、96年度1652名、97年度1789名であり、軽くその実数を越えている。新宿区の生活保護申請のほとんどは医療単給であり、そのため年に何度も申請をし直し診療を受けるなどの重複がかなりあると思われるが、それを差し引いても、治療を求めて多くの「路上生活者」が福祉事務所に殺到している図はこれから明確にうかがえる。
他方でこのように治療を求め殺到される側=福祉事務所の対応として、医療機関での受診はさせるものの、その際、継続的受診の必要は認められながら居宅保護の手配がなされない、医療単給による「路上生活」のままの通院=いわゆる青空通院が、都内の多くの福祉事務所においてもまかり通っているため、通院の中断や病状の悪化につながり、慢性疾患の治癒を引き伸し、更に病状を悪化させる大きな根拠になっている。
新宿区の統計でも、どこの区の統計においても青空通院の統計資料は外部には公表されておらず、おおまかな数しか分からないので推計すれば、97年度の新宿区の申請受理件数1789-(入院者数212+収容者数44+ドヤ生保数305人)=1228名となり、だいたい千名規模での青空通院がまかり通っている計算になる。新宿区の年度別扶助費の支出状況もまた医療扶助費が総支出額に対して毎年ダントツで約6割も占めることからも、このことはある程度裏付けられるであろう。
このような制度の運用上の問題も加わり、病気を抱えた「路上生活者」は、病気すら安心して治癒できない環境に総じて置かれている。
また、傷病が重篤、緊急と判断され、入院や施設、ドヤ(簡易宿泊所)から保護を受け通院措置となっても、その後の適切な指導がなされなかったりして、中途退院、中途退寮し、疾病を更に重くして再び福祉に駆け込まざるを得ないなど、福祉の対応や体制の不備が悪循環を生み出している例も多い。
そして、私たちも実際に幾度となく立ち会う事になった路上死も、そのさまざまな要因の結果として後を立たない。
新宿区の「住所不定者死亡者リスト」(行旅死亡人、入院1か月以内に死亡した者)によれば94年度21名、95年度35名、96年度49名、97年度56名が亡くなっている。四年間で161名もの尊い命が不幸な死に方を余儀なくされ、しかも、それは年々増加傾向にあり、とりわけ11月から3月の間の冬期に集中している。
また、97年度では行旅死亡が22人、病院死が34名と救急搬送されながらも、危篤状態で手の施しようもなく死亡する人の多さが特徴である。23区や東京都全体の統計は発表されていないが、おそらく都内年間百名規模で、このような形で人生の終幕を降ろす人々がいるのである。
「路上生活者」は、「貧困プール産業」末端で働き続けて来た人々を中心に、失業など経済的な問題を中心に様々な複合的な要因で、様々な社会的階層の人々によって構成されている。が、一度「路上生活」に入ってしまうと「路上生活者」層に共通する様々な内的、外的な困窮がそこに待ち受けている。もちろん抱えている困窮の度合は人によって格差があるだろうが、それを勘案したとしても「路上生活者」に共通する困窮とは、上記のような構造の中でいったん「路上生活者」となると、そこからなかなか抜け出せない問題であり、「路上生活」のまま一生を終えなければならない恐怖である。
「路上生活者」が、その現状を変えるために主体的に何を求め、何を訴えているのかを把握することは、客観的な現状を認識することと同様に重要な事柄である。「路上生活者」たちは、強いられた現状に対し生活防衛力を働かせると同時に、その生活水準からの脱却を目指し、個人的または相互扶助的な協同した力で様々な努力を日々行なっている。しかしそうした努力にもかかわらず現実には達成できない事柄があり、それらが「路上生活者」たちのニーズ、一番望む事柄を指し示していると言える。
それは、社会がどの程度、どのように「路上生活者」の困窮に手を差し延べることができるか、ということの大きな目安であるべき点であり、基本とすべき観点であると私たちは考えている。
第二章「路上生活者」のニーズ
2-1 「上からの救済論」批判
「路上生活者」達の「声」を無視し、上から「路上生活者」を類型化し、これが困っているだろう、あれが困っているだろうと、勝手に想像し、形式化し、その不足分を補っていこうとする発想は、たとえそれが善意から発せられたとしても、現に困窮している人々の人格を傷つけ、当事者からは歓迎されない援助となるケースが多い。「路上生活」よりも屋根があれば良いという発想は極めて当然な発想なのであるが、その屋根の獲得に至るプロセスを欠いた思考では「収容所」をこしらえそれで良しとする、極めて雑で単純な発想しか導き出されない。
「路上」に暮らしている人々もまた、同じ社会の構成員であり、明日の自分の姿であるかも知れないという基本を忘れた人々は、往々にして、現状をさっと分析しただけで高見に立ち、安易に「処方箋」を書きたがる。が、「路上生活者」は猫や犬とは違うのである。そこには戦後史の中、人生の重みを背負った、もの言う人々がいるのであり、また、弱者であるからと言って物乞いをする人々ばかりではなく、それぞれの尊厳を持ちながら路上で生き抜いている人々がいるのである。そういう人々の集団を相手にする以上、これら「路上生活」でなければ何でもいいという雑で単純な思考ではとうてい太刀打ちできないだろう。
これとほぼ同じ発想で、「路上生活者」の救済の方法・内容の違いから「路上生活者」を二つ(1.働く意欲と能力を持った層と2.就労自活の展望のない高齢者・障害者・疾病者)に分類して考える発想をもった人々が一部にいる。これはいかにももっともな考え方であるかのように見えるが、前者には自立支援事業、後者には生活保護という処方箋の結論が先にありきの議論であり、その分類もまた粗雑なものである。就労能力や意欲の有無を基準にする分類方法は、とりわけ生活保護行政内部では一つの基準になり得たとしても、それは一つの目安でしかなく、実際は、そう単純には二分化などされないのである。現行の施策運用基準に合わせて「路上生活者」を二分化して済む問題なら何も「路上生活者」のニーズなど聞く必要もない。
他方で、これは社会福祉関係に従事する人々からの意見が強いのであるが、最低生活水準を保てない状態にあるのだから、等しくその不足分を補うべきだという主張もある。具体的には「安定した住居」に不足している人々、「最低限度の生活費」が不足している人々に、その不足分を公的に救済して補えという意見である。もっと言えば生活保護の適用をすべからく行なうべきだという主張である。原理原則から言えばこの主張は正しいし、戦後の貧困問題の対処を踏襲した意見である。が、私たちは生活保護を全ての「路上生活者」に適用すべきだとは考えていない。もちろん、その必要のある人々は存在するし、また公的に補う必要のある部分は補うのが当然である。この問題は後にも再び取り扱うが、ここでは、簡単に「路上生活者」のニーズとの関連だけを提示しておこう。
原因論的には、前章で展開したよう社会保障政策の欠陥が「路上生活者」を生み出す一つの根拠となっている。社会福祉政策もまた、公的扶助が貧民全てに機能しなくなっていることに象徴されるように、これも「路上生活者」を生み出す一つの根拠と考えられる。もちろんその政治的な是正は必要であるが、現行のこれらの制度運用においてはもはや「路上生活者」に対応できないばかりか、多くの低所得者層にすら追いつけないだろうことは容易に想像できる。この問題は、貧困ラインを経済的にのみ維持させようとしてきた戦後社会福祉の基本的な発想に本質的に起因すると私たちは考える。すなわち「救済論」を基本に据えたことにより、制度が硬直化してしまい、本来社会福祉に必要な弾力性が失われてしまったのではないか。ならば、制度があるかといって結論を先に出してはいけない。
私たちは「路上生活者」が全て公的に救済されるべき対象であるかと言えば、果たしてそうなのか?と問う。まず議論しなければならないのが、現に生きている「路上生活者」が本当に公的救済を求めているのか、どのレベルでの救済を求めているのかという点をまずははっきりさせることである。これを抜きに「路上生活者」は要保護状態であるからすべからく公的救済すべきだと主張するのは、「路上生活者」はただ単に公的救済される存在だと一方的に規定することにならないだろうか?「路上生活者」の実際のニーズを明らかにせずに語る公的救済論は、ある意味では上から語る左からの政治主張以外の何物でもないと考える。
すなわち、肝心なことは「路上生活者」が何を望み、何を解決しようとしているかであり、ここの究明と理解なくして、施策内容などは出るはずはないのである。ここを省くことは、戦後の貧困問題の対応時によくありがちな、当事者不在の救済に行き着き、他方においては福祉との依存の関係を固定化させる傾向を強めるだけである。
「路上生活者」のニーズを把握することは、ただ単にその不足を発見するだけの作業ではない。「路上生活者」が発するニーズと、そのニーズを求める「路上生活者」の個人的もしくは相互扶助的な協同した努力に、どれだけ合致した、より当事者サイドに立った有効な社会的な支援が出来るかを発見する作業でもある。不足を明らかにするのは簡単であり、その不足を補うのも財政的に許されるのであればこれも簡単である。が、その不足を補う作業を当事者と共に行なっていこうとする観点は旧来型の発想からの飛躍を問われる。上からよかれと思い物資を垂れ流しにするのではなく、人間としての可能性をいかに引き出せる支援がいかに出来るのか?私たちはそのモデルを第三世界の開発援助などで国際的にも注目を浴びているエンパワーメント・プロセスなどに見る。
私たちも当座の食料支援として炊き出しを新宿地区において週に一度実施しているが、これは、食料が自力で調達し難いという「路上生活者」の当座のニーズから生じているものの、そこにおいて、食事を与えるという行為を目的化せず、作る過程や配食の過程での「協同性」「関係性」「自発性」を重視した「全体の作り方、食べ方」を常に追求している。これと同じで、ニーズがあるから、困っているから、それを与えればよいという発想は「何故困っているのか?」「与えることでどういう意味があるのか?」という思考を欠如した極めて機械的で安易な救済の仕方を編み出してしまうのである。しかも、行政における食料援助は「与える」のみであり、緊急避難的には評価できるものの、その最悪の例を作ってしまったのが川崎市による「パン券」支給である。そこから何を導いていくのかすら発想されず無闇に垂れ流しされているだけのこの事業は、依存の習慣化、そして、「路上生活」の固定化という事態を引き出している。もちろん食料援助をすべきではないと言っている訳ではなく、これら不足分を充足するだけの手法では、もはやより良き対応は出来ないと言っているのである。
すなわち、ここでは、以上のような結論を導き出すことを目的とせず、また、不足とされる単なるニーズ把握にとどまらず、自分のニーズを自分で充足する作業をどのように行なっているのか?その手段が果たしてあるのか?その努力を引き伸ばし共に解決する道はあるのか?という点も含め多角的に論じていきたい。
2-2 アンケートから見るニーズ把握
94年連絡会調査、99年連絡会調査などアンケート化されたものの中で「路上生活者」が求めている主要な項目はだいたい以下のようにまとめられる。
1) 住居の確保
2) 仕事の確保
3) 傷病の治療
4) 生活上の諸問題解決
5)対外的な理解の希望
これらの項目の内で、最も多くかつ共通する項目は、住居の確保と仕事の確保となり、二つのアンケートでも全体の7割の人々の要求がここに集中している。もちろん、その要求の度合いは様々であり、また、相互に関連したものであるが、ここでは便宜的にそれぞれの項目に分けながら99年連絡会アンケートを基礎資料に詳しく見ていきたい。
イ、住居の確保に関して
(略)
ロ、仕事の確保に関して
(略)
ハ、傷病の治療などその他のニーズ
(略)
2-3 ニーズの充足の努力と手段
ここでは、「路上生活者」がニーズの充足のための努力をいかに行ない、また、そのための手段がどれ程あるのかを鮮明にして行きたい。
安定した居住を求める指向性は「路上生活者」にほぼ共通したものであることを前項では見て来た。このための努力はどのような指向性として具体的には表現されているのか?
多くの長期に「路上生活」を余儀なくされた人々は管理が比較的厳しくない公共地などにその生活の拠点を築こうとする。むろん、それは「不法占拠」状態であり、一般社会的には許されぬ行為であったとしても、緊急避難的に彼・彼女らは「仮の宿」を構築したがる。これは、生活上最も必要なことであるからに他ならず、何も彼・彼女らが反社会的な「無法者」であるからではない。
もちろん、これらは一人の作業ではなく、グループや社会組織によって共同の力で作られる場合が多い。そして、廃棄ダンボールや廃棄木材などを使って、自らの必要最低限の生活が維持できるよう、それぞれ工夫を凝らしながら、自らの城を築くばかりか、技能も含め「作れない者」に教え込むなどしてそれを広める。瞬く間に東京のみならず全国に広まりつつある同じようなダンボールハウスやテント、仮小屋の形態は、誰かが一斉に作った訳ではなく、このように必要性から広まったものである。このための努力は彼・彼女らは決して惜しまないし、ある意味では徹底した意思によって行なわれている。
生活の基盤を維持していくための努力もまた仮の住居をもった者にとって最も大事な事柄である。管理者が行なう清掃への協力や、率先した周辺の掃除、仲間間の秩序形成など、自らの失態でその場から退去しなければならない事態を避けるため最大の注意と努力を払う。
また、生活必需品も自分の力、もしくは協同した力で調達してくる。毛布、布団などの寝具、衣類を整理する棚や、コンロなどの調理道具、ラジオなどの娯楽品も機会があれば揃えてくる。
偏見論者にとってみれば、これらはまさに「とんでもない」事態なのであろうが、逆に見れば、人間らしい営みをしたいという希求こそ、彼・彼女らを動かしている基本なのである。それは、何も「路上生活者」に限ったことではなく、人類全ての思いであり、その努力を「路上生活」だからと言って否定したり、奪ったりするのはいささか角張った考え方である。問題は、それが非合法であるというだけの話である。
もちろん、非合法なればこれらの努力空しく、追い出されたりもする。その意味で不安定であり、常にその恐怖を感じながら、自分の城を守っているのである。
私たちは、ここにニーズを自らの力で獲得しようと努力する人間としてまっとうな姿を見る。この姿勢にこそ、社会は応えなければならないのではなかろうか?つまり、極端な例を言えば、自ら組織された彼・彼女らに遊休地を供与または貸与するだけで、自らの生活拠点は自らの努力によってその多くは解決する能力をもっているということである。
すなわち、住居を確保するというニーズを満たすための合法的な手段が圧倒的に不足している為に、彼・彼女らは非合法な手段を選択せざるを得ない状態に追い込まれている訳である。その結果として「不法占拠」とよばれるダンボールハウスやテントが増え続けているのであり、事は極めて単純である。
合法的に居住を確保する手段は前項で見てきたような困難の中でほぼ不可能であり、可能なのは収入があった時のカプセルホテルや簡易宿泊所への不安定ながらの宿泊でしかない。公的な宿泊所は都内に何か所かあることはあるが、その情報すら知らされず、常に満員状態である。しかもその入居には様々な住民票概念による要件もあり、「路上生活者」を受け入れる環境にはない。合法的に居住につながる手段がないことこそ問題であると言えるだろう。
仕事のニーズに対する努力もまた並外れたものがある。もちろん、これはその手段を有するものとそうでない者との格差はあるが、日雇仕事を求める者は朝の3時過ぎから手配師の来るのを仕事があろうがなかろうが、毎日待ち続ける。仕事がたまにあれば拘束時間は優に15時間近くになるが、それでも翌朝仕事にありつくため、早朝から手配師の来る場所に集まる。また、インフォーマルな労働においても、同様の努力が必要であり、例えば古本集めなども、努力せずして集まる仕事ではなく、同業者と競争しながら早朝から夕方まで電車を乗り継ぎ、遠方まで足を延ばす。露天関係も同様であり、歓楽街などでは夕方から朝まで冬でも夏でも立ちっぱなしの仕事をまさに汗水たらしながら行なっている。もちろん、それでいて収入は食費だけで消える程度のわずかなものである。
これら「路上」で働く人々は一般社会の人々に比しても負けることない位の労働量はこなしているのであるが、その点における社会的な評価は全くと言っていい程行なわれていない。機会と手段さえあれば、多くの人々はこのように必死になって働く能力をもっている。仕事をしないから「路上生活」をしているのではなく、仕事の機会に容易にアクセス出来ないから「路上生活」を余儀なくされているのであり、また、たとえその機会があったとしてもインフォーマル労働故に労働に見合った賃金を得ることが出来ず「路上生活」を余儀なくされているのである。問題は就労意欲云々という単純な問題ではない。もちろん高度な技術はもっていないし、人間関係も下手な人々もいる。その点でのミスマッチはあったとしても、一般の就労に適しない人々というレッテルは明らかに間違ったレッテルである。
その他のニーズ充足にたいする努力については、とりわけ生活上の諸問題に関しては、前述したような、飯の確保などでの協同した力であるとか、衣類の確保であるとか、これも「住居と仕事」と同様、様々な努力や工夫を重ねて部分的に解決をしている。とりわけ、ボロを着、髭ボウボウの「路上生活者」が比較的少ない視覚的な事実は、衛生面での注意を各々極力払っている証拠であり、決して「世捨て人」ではなく、社会内の人間として自覚していることの現れであると考える。
他方で、傷病の治療など、ことその手段が行政機関などに関わる問題では、これも程度の差はあるが、相対的に権利意識はそんなに強い方ではなく、役所の「いいなり」になるケースは多い。もちろん社会組織などでの交渉など、集団としての場を与えられる事での要望の実現がなされている場合はあるが、個別の問題に関しての行政の存在はまだまだ遠い存在であると言えるだろう(行政サイドの問題もまた指摘されるが)。病気を抱えながらなかなか治療に行かない、福祉に行かずに悪化させ、救急車で運ばれるケースの多くは福祉サービスを知らなくてではなく、こと他人に対しては積極的になるが自分のこととなると消極的であるという典型的な傾向の現れと言えるだろう。
このように「路上生活者」は基本ニーズの充足のために個人的ないしは協同的にかなりの努力をし、度合はあるものの、その充足の部分的な実現を果たしてる場合も多い。その程度はとりわけ「自力で」「仲間と一緒で」という場面においては、かなりの力を発揮している。他方で「行政」の支援やサービスが必要という時には相対的に弱く、困難を自分に抱えてしまうという傾向が存在する。もちろん、それは手段へのアクセスの方法が一方的であるなど、かなり利用しづらい面をもっていることも一因となっている。
2-4 旧来型貧困概念と方法論からの転換
(略)
2-5 ニーズを充足させる方法論について
もちろん、これらのニーズは生活上最も必要な事柄だからこそ、必死になって彼・彼女らはそのニーズ充足に向けた努力をする。ここに着目するのは当然であるし、社会はここを引き伸ばして行くことの延長線に「路上生活」ではない生活を展望させていく必要があろう。
そして、また、これまで述べたよう、多くの「路上生活者」は自分のことは自分で決定したいと考えており、そのための努力を惜しんでいない。実際、そうした自己解決能力は個人的またはその社会組織の中で多分に存在しているのである。
したがって「路上生活者」への社会的な支援に必要とされているのは、彼ら彼女らの自己決定能力や自己解決能力を(それが個人的であれ協同した力であれ)最大限尊重し、権利を与え、それぞれの意思や努力に対応した選択可能な支援内容を提供する方法論であろう。
他方、「路上生活者」は、行政サービスにはあまり期待をしておらず、その点での権利意識は相対的に弱く、自分は福祉の世話になりたくないという、言うなれば日本人の平均的な感覚を有している。行政サービスはその上にアグラをかいて、上からの決定や押しつけをするのではなく、また、「路上生活者」を敵視または「お荷物」的にとらえるのではなく、様々な社会資源を準備活用すると同時にそこに容易にアクセスできるよう積極的に働きかけるべきであろう。
これまでの社会福祉の方法は多分に世帯や個人に向けたもので、社会集団などに対しては、基本的にそれを解体した上でのサービスの提供という方法を常に取ってきた。しかも、自己決定権を相対的に剥奪し、選択肢を与えず、一方的に型にはまったことを「押しつける」傾向が指摘されている。このような社会的な救済、支援方法ではいくら「路上生活者」がニーズを発しても、それに応えらえないばかりか、せっかくの自発性すら破壊してしまう危険性すらある。社会福祉関係者からは「路上生活者」が既存の制度には「なじまない」傾向が度々指摘され、それが「路上生活者」がいかにも「自由人」であるかのような根拠にされているが、それは、単に制度の幅の狭さが、「路上生活者」の意欲や希望とミスマッチを起こしていることの表現に他ならず、「路上でなければなんでも良い」という行政の単細胞的な発想の裏返しでしかない。
生活保護制度にせよ、「路上生活者」であったことを恥とするかの如き指導のもとで、生活保護受給者は形見の狭い思いをしている。方法論について言えば、例えばグループごとを単位とした保護適用であるとか、集団を単位とした行政支援、といった大胆な発想の転換、試行錯誤が必要ではないだろうか?グループホームやアルコールミーテングなど一部においてはそのような実験はなされているものの、未だそれらの評価は低く、多くは管理型である。
また、就労支援にしたところで現在は「路上生活者」から「常雇」にさせる単線的な方法論しか考えついておらず、例えば今あるインフォーマル労働、露天商などを合法化するとか、自営的な手段、協同的な手段に資金を貸し付けて引き伸ばしていくとか言う発想すらない。上から望む労働に就けと言ったところで、その受け皿産業すら用意しなければ、結局は元の木阿弥である。
さらに、「路上生活者」が支援を受けて自らの組織を作ろうとすると、常に法秩序を乱すものとみられ、取締りの対象となり、行政も敵視をし始める。
私たちは、「路上生活者」自らが組織した社会組織をこそ社会が正当に評価し、認め、その力を有効に活用させていく方が、行政の下請化しているボランティアを活用するより、より「路上生活者」の生活向上に有効に働くだろうと考えている。
行政支援を求める「路上生活者」とそうではない「路上生活者」を二分化させたところであまり意味はない。そのような分類方法を破棄し、旧来型の社会福祉の方法や社会サービスの方法も再検討し、「路上生活者」のニーズ及び、そのニーズに向けての個人的努力と適合する支援方法を社会が確立しなければならないのではないかと私たちは考えている。
なにも私たちは、「自主管理」などと形態的な問題を言っている訳ではなく、全てを「路上生活者」に任せてしまえと言っている訳でもない。様々な社会サービスの提供時においては、権利と義務関係も当然ながら基本となるべきであると考えている。ただし、その程度は段階的であるべきであり、「敗者復活システム」は単線的なレベルアップとしてではなく、らせん的にレベルアップさせて行く構図で作り出していく必要があるということだけである。
「問題」の社会的な解決のため、人々はその「成果」を急ぎたくなる。が、そのために準備された施策が一つでしかない場合は、それからこぼれ落ちる人々に「失格」の烙印をついつい押したがる。そうすることで、社会は何等かの施策をしたことになるが、こぼれ落ちた人々はその状態を固定化させられるしかない。矛盾が矛盾を呼ぶとの通り、これでは結局、施策を利用できた一部の人しかの施策でしかなくなってしまう。
「多様な人々」というのであれば、「多様な選択肢」がそこにあるべきであり、たった一つか二つしか選択肢がないという事は実に不幸なことである。しかも、「路上生活」であることを脱ぎ捨てて、そこからの脱皮を一気に達しようとする方法ででは、それまでの努力もまた空しく、結局は「行政にすがる」という貧者の生活向上の意欲すら奪う最悪の依存関係を作り出してしまうだけともなる。
「路上生活者」のニーズ把握から判明することは、「路上生活者」と非「路上生活者」との間に意識の差があり、当事者のニーズに社会が適合していないこと、及びそこから生じる施策とのミスマッチである。いかなる施策をそこに準備したとしても当の「路上生活者」の多くが歓迎しない施策であるならば、それは社会的な経費の無駄使いであり、「路上生活」の現状を固定化させるだけの代物になり下がってしまう。ニーズに一方的に迎合しろと言っているのではないが、少なくとも点検すべきなのは、施策が「路上生活者」が発する基本ニーズを正しく評価し、それに適合していこうとする指向性を持ったものであるか否か、という点であろう。社会が「路上生活者」に対する対話をおこない、行政が施策の対象者への説明責任を果たしていくこと。そうした対話に向けた努力を積み重ねていくことからしか実効性のある施策は生まれてこないだろう。
第三章「路上生活者対策」の現状分析とその評価
この章では、現行の東京都における「路上生活者対策」の現状を分析した上で、この対策の現状が果たして上記の「路上」の現実に適合したものであるのかどうかを吟味していきたい。ここでの私たちの立場は、単に行政施策が足りない、現実に即していないと批判することではなく、それが何故であるかも含めて分析し、より対策を実情にあわせていこうとする立場である。
3-1 「路上生活者対策報告書」の評価
(略)
3-2 現行の行政サービス
(略)
3-3 生活保護と他施策の位置づけ
(略)
3-4 自立支援事業の現状と課題
(略)
3-5 労働・衛生・住宅施策の検証
(略)
第四章 政策提言
現状、ニーズ、施策、と「路上生活者」をとりまく実態をある程度くまなく見てきたが、最後に「路上生活者」が「路上生活」から脱し一般社会(例えそれが下層であろうが、安定した住居がある生活)に復帰し得る機会を社会的に提供するため必要な施策を、どのように整理し、そのように提供できるのかを、最後に提言としてまとめて見たい。もちろん、それは一気に解決すべしという乱暴な「処方箋」のそれではなく、また総花的な夢物語としてでもなく、まず必要だと考える、あくまでも現状に則して可能な範囲での段階的施策の提供および対策の整理であり、提言である。
ここでの基本姿勢は、前述したような「路上生活者」が発するニーズおよびニーズ充足への努力と、施策(の体系)をいかに結びつけるかであり、「路上生活者」の自己決定権を尊重し、自発的に選択出来る、それぞれの段階やそれぞれの現状に則した選択肢可能な様々な施策をいかに社会が提供できるのかという点である。もちろん、それは私たちが考えている理想の形態ではない場合も多々あるが、「路上生活者対策」が現実に進行していることを踏まえ、それから大幅に逸脱した主張をすることは対策を渇望している「路上生活者」にとっての不利益にもつながると考え、ここでは現行の「路上生活者対策」をベースにしながら、その可能な限りの発展を考えての提言にとどめさせていただく。とりわけ、その施策の提供における方法論は私たちの考えと現実とは大変齟齬があるが、これは現実の施策提供過程において問題とすべきで、今、緊急にすべきは、それよりも、施策の充実の方であると考えるからである。
4-1 「路上生活者対策」体系の整理
イ、責任体制の確立
「路上生活者対策」体系の中に、現行の諸制度や新設の施策を明確に位置付けていくためにも、その統括責任体制が確立されていなければならないだろう。
現在、その体制は都においては福祉局、区においては厚生部と、福祉部門が中心となり、都区間や他局との横の連携もままならない状態であり、取りまとめを福祉局政策調整担当課長が担っているに過ぎず、その責任体制も曖昧なままである。また山谷対策との重複など非効率的な部分も多々ある。
1)行政内部において、対策本部なり、対策局もしくは対策課を設置し、その元に都区(今後市部も含まれるのであれば市も含めた)関係各局各課が統括される組織を早急に作るべきである。
2)その際、山谷対策室の一部業務など明らかに重複する部分は効率的に統合して行くべきである。
特定の地域対策は「路上生活者対策」あるいは「日雇労働者対策」など、全体の体系の中で本来考えられるべきであり、組織的な逆立ちとも言える状態は速やかに是正されるべきである。「路上生活者対策」の体系と「日雇労働者対策」の体系がありさえすれば、地域対策はその下部に属せば良いだけの話である。
ロ、23区「路上生活者」総合相談窓口の設置
統括体制と同時に「路上生活者」が対策を希望する場合の窓口が23区に設置されていなければ意味を持たない。この役割を現行の計画では福祉事務所住所不定係に据えるという案であり、自立支援センターの受付などの業務は福祉事務所扱いとなっている。が、本来、福祉事務所窓口は生活保護申請などに関する窓口であり、職員もそういう研修のもとに配置される。自立支援センターなど生活保護法関連ではない施設入所の受付までをも福祉事務所に設置させるということであれば、
1)各福祉事務所内には「路上生活者対策」専門の総合窓口が必要であり、特別の研修を受けた職員がそこに配置されなくてはならないだろう。
そして
2)「路上生活者」を対象としたサービスは、可能な限り総合窓口に一本化する必要がある。
ハ、体系を裏づける法制度化と国庫補助
現行対策では生活保護関連施策が先行しており、他の手段が圧倒的に遅れている。この大きな根拠には、生活保護関連施策に関しては法制度が確定しており、また国庫補助があるので財政的な問題もクリアしやすいが、他施策についてはそうしたものが存在しないという背景がある。法外援護の食糧援助や交通費貸し付けなどは基本的に区財政の持ち出しであり、また冬期臨時宿泊事業、自立支援センター事業などの法外施設建設および運営費は都区財政の折半という状態である。この構造を是正しなければ、生活保護関連施策のみが突出し、対策の上部に立つという構造的な形態は変わらないであろう。
生活保護関連施策を対策体系の中に正しく位置付けさせるためにも、
1)法外部門を法制度化し、予算も含めた基準を確定させていく必要がある。もちろん、これは都区行政だけの問題でなく、国の協力なしには実現不可能であり、都区は国への働きかけを強力に推し進めていくべきであると考える。
その場合の法制度は、生活保護法とは別の「路上生活者自立支援法」とでもいう(もちろん時限立法でもかまわないが)内容に限定すべきである。これは生活保護関連施策の上部に法外援護施策(後述の「自立支援関連施策」)を制度的に認めさせていくためのものであり、保険医療施策、労働施策、住宅施策などへのアクセスを可能ならしめていくものである。ここにおいて生活保護法を変える必要性はまったくない。
2)もちろん、法制度を目標にしながら、当面は都区行政で可能な限りにおいて、「自立支援関連施策」を前進させていく必要がある。
ニ、「自立支援関連施策」の整備
ここで「路上生活者対策」のうち、生活保護法による各種扶助及びそれに極めて関連している法外援護(すなわち本来の法外援護)と、それ以外の施策を区別し、前者を「生活保護関連施策」、後者を「自立支援関連施策」と便宜的に名付ける。
その前提で、それぞれの施策性格に則して対策の体系を下記のように組み立て直し整備する必要がある(なお、情報提供や相談などのサービスはここでは省く)。
<自立支援関連施策>
1)応急施策
ステップ1 食糧援助
衣類援助
シャワー提供
交通費貸し付け
ステップ2 短期宿泊施設
など
2)自立支援事業
タイプ1 路上からの就労支援策
タイプ2 路上からの住宅支援策
タイプ3 施設入所前提の自立支援事業(Aタイプ、Bタイプ--後述)
など
なお、<労働施策><住宅施策><保険衛生施策>が、これらに相互にからまる。
<生活保護関連施策>
生活保護法に基づく援護
(医療扶助、生活扶助、住宅扶助など)
各扶助に関連した法外援護
以上のように大別し、生活保護関連施策をかなり限定させると、その他の事業が浮き上がってくる。もちろんこの「自立支援関連施策」も広い意味では社会福祉の領域に入るであろうが、明らかに公的扶助=生活保護適用業務とは区別されるべき内容を有している。この区別こそが必要であり、生活保護関連業務以外の「自立支援関連施策」を「路上生活者対策」の中心施策として明確に位置付ける必要があるだろう。
もちろん、それぞれの事業には幅があって良いが、「自立支援関連施策」は何も自立支援センターひとつではなく、応急的な食糧援助から始まり、短期宿泊などでの休養や行政サービス情報の提供などに行き、路上のままからでも仕事に就けるような支援、または居所につながるような支援、それでも駄目ならば施設に入所して就労する機会を与える支援など、このように順番に進んでいく、その一連の流れとして確定すべきだと考える。そして、その渦中で体を悪くしたり、高齢で就労より保護を受けたいと希望する者に生活保護の適用となる(もちろんこれらは直線的なステップアップとしてではなく、らせん的なステップアップの仕方として把えるべきである)。
自立支援関連施策の規模や内容にもよるが、このような構図の中、始めて生活保護との整合性が出来、また生活保護関連施策も生かされてくるのである。
このように「路上生活者対策」を体系的なものとし、とりわけ早急に「自立支援関連施策」を強固に整備していく必要があるだろう。
以下その具体的な施策に関して必要最低限の提言をしていきたい。
4-2 「自立支援関連施策」に関する提言
イ、応急施策について
応急施策についてのサービスは「路上生活者対策」におけるまず最初の接点となるべきであり、食料や衣類の垂れ流しや固定化に終わるのではなく、他のサービス情報提供などを広報する場として活用すべきである。食料や衣類などは必要最低限(一日一食程度)の支給とし、依存を発生させる関係は戒めるべきであろう。
その前提でまず必要なことはサービス内容の統一であり、また登録カードなどの作成によるサービス実施機関による対象者の把握である。もちろんそれは「路上生活者対策」の体系がはっきりしており、次のステップが明確に確立した上での話であり、登録制などは今すぐにはかなりの困難を伴うだろう。
ここでは、現状においてまず実施できる以下の二点を提言したい。
1)応急施策については23区でサービス内容を統一すること。
2)サービス提供時にその他の様々なサービス・情報を提供すること。
また、応急施策のステップアップとして、
1)現行の冬期臨時宿泊事業を通年化し、二週間枠での無料宿泊事業を23区窓口で実施すること
が必要である。
現行の冬季臨時宿泊事業の通年化(なぎさ寮300人枠程度)は、山谷対策における臨泊や越年越冬対策を「路上生活者」対策に統合させるだけで可能な施策である。希望者が交替交替二週間だけでも体を休め、食事、洗濯施設、風呂の施設などを提供することで日常生活のリズムを戻し、自立に向けた英気を養うと同時に、施設内での簡易相談などで、「路上生活者」の困難解決の糸口を探り出していく、その突破口ともなるべき施設である。言うなれば冬期臨時宿泊施設の通年的なシェルター化であり、入所基準は出来る限り簡易かつ平等化させる必要がある。また規則は可能な限り緩めると同時に、入所者の自治を可能な限り認めるべきである。
もちろん、冬期、年末年始期においてはこれの増員を図る必要がある。
ロ、自立支援事業について(その1)
自立支援事業については、施設(センター)にとどめるだけではなく、施設入所を希望しない者、あるいは、施設入所をしたがうまくいかずに「路上」に戻って来てしまった者をも排除せず、「路上生活」のままで支援できる施策も含めて考えるべきであろう。
自立支援とは就労自立にとどまることなく、様々な形での「路上生活」からの脱却と、市民社会への復帰と概念化させる必要がある。すなわちなんらかの収入を保障させる事がその第一の目的となされなければならないし、その次に安定した居所を保障する事につなげていかなくてはならない。これは同時の場合もあるし、時間的に差がある場合もある。
「路上生活」のままからの自立支援策は次のようなものが考えられる。
*年金や保険にかかわる相談と調査および具体的な収入確保や居住にむけた手段の提供
*家族との連絡、および扶養依頼や、交通費などの手段の提供
*新聞求人欄や求人誌の提供など「路上生活」から就労できる手段の提供(電話賃、衣類、面接時交通費、就職支度金など)
*免許証の再交付など技能を証明する免許など紛失時の手続き手段の提供
*現に収入のある者には、公営の低家賃住宅の紹介など住居の安定にむけた手段の提供
先の応急施策と強くからめて、「路上生活」の状態から自立支援が可能なサービス体制を作る必要があろう。例えば短期宿泊施設からでもこれらのサービスにつながるようにすれば効果的でもある。これらはセンター(施設)が出来ればそこで一括しようと考える向きもあるが、実際の計画ではその規模は極めて小さく(50人規模の施設を5か所)現状への対応は厳しいだろうことが予測される。また、わざわざセンター(施設)に入所させるまでもなく、手段を与えるだけで自立可能な人々が現にいることを重視するなれば、「路上生活」のままからの自立支援策は「路上生活者対策」の効率化から言っても必要となってくる。今の計画では今後、センター(施設)を水膨れさせていくだけであり、「箱もの」行政と何等変わらない。「路上生活」状態からの施策を拒否することなく、多様な自立支援事業をそろえることが必要である。
「路上生活」のままからの自立支援事業を施策化する上で、現状において不足している社会資源は、端的に言えばそのための相談体制と、公営の低家賃住宅であり、他方で、相談時に支給できる金銭や物資提供の財政的な裏付けである。とりわけ公営低家賃住宅については、これは後に見るようセンター(施設)の回転に関しての大きな課題でもあり、早急に整備させていく必要があろう。また、現状の相談体制も、当座は福祉事務所のままである言うのであれば、多様な相談に対応できるような人材を極力配置すべきであろう。
現状において、ここでは以下のように私たちは提言をする。
1)「路上生活」のままでも、自立を目指した様々な相談内容や希望に対応できる相談および援助システムを作ること
2)公営宿泊所の提供など「路上生活者」が活用できる住宅施策の飛躍的な充実
ロ、自立支援事業について(その2)
次に自立支援センター(施設)で行なう自立支援事業について見ていきたい。その細かな要望については前章で記した所であり、ここでは基本的な問題についての提言をしていきたい。
自立支援センターは施設を利用しての就労自立支援サービスの提供であり、その意味では「路上生活」のままではサービスが不可能な点を重点的に考える必要がある。センター(施設)は一般常雇就労を希望する者で、「路上生活者」のままではその実現が困難な者専用の施設という位置付けをしていく必要があり、それに則したプログラムを多く作り上げなければならないだろう。
他方で、就労問題だけに目を向けていると、様々その他個人的な問題であるとかをフォロー出来なくなる。例えば住民票の設置が様々な事情で不可能な人々(中には本籍地も紛失しているような)もある一定程度存在している訳であり、いくら本人が常雇就労での自立を希望しているからと言って、ひとつのプログラムだけで対応できるはずがない。
私たちは基本的に自立支援センターについては、おおまかに二つのタイプに分類して運営した方が良いのではないかと考える。
Aタイプ 就労自立支援だけに限定した
短期コース
Bタイプ 就労自立支援プラス、様々な
個人的問題を解決するプログラムを持った長期コース
これらはコースを分けるだけでなく、生活面も含めてそのプログラムを変える必要があるだけに、少なくとも部屋を分離するなどの工夫が必要だろう。
まずAタイプであるが、プログラムがある程度単純化できる人々は就労機会を与えることと、その努力を支える環境を作ることが必要とされる。暫定実施の実績を見ても、技能などを持ち、比較的若い層なら、就労へのアクセス手段をある程度揃えるだけで就労への結びつけはおおむね三か月程度の比較的短期で可能であると考える。一般就労への機会を均等に与えることをこの短期タイプのプログラムでは目的化する必要がある。すなわち、住民票、連絡先を置き、就労活動への支援を行ない、一般の失業者並にレベルアップするだけで一般労働市場に順応できる比較的若い層、技能を有している者などを対象とするプログラムである。
このタイプにおいて、現行計画で不足しているのは
1)就労の際の保証人制度
のみであり、就労活動を円滑にするため早急な導入が求められている。
他方、Bタイプであるが、その自立に向けた目標が同じでも、そこに至る過程において様々な障害がある人々が存在する。例えば住民原本が喪失されている人、多重債務者、あるいは前科のある人、軽い障害を持った人、高齢ながら就労自立を希望する人などである。これら「就職困難者」の人々の自立を支援するには、Aタイプのプログラムではもちろん十分ではない。
これらの人々については、ある程度の長い期間を見通した様々なプログラムを用意すべきであろう。もちろん一般常用就労による自立を希望する点を尊重しながら、その就労に結び付ける積極的な支援策がここではなくてはならない。
債務など個別の問題がある程度精算されれば問題がないという人なら、その時点でAタイプへの移行は可能だが、それ以外の「就職困難者」に対しては、シルバー人材センター就労などによる福祉的就労の提供や、職業技術専門校や技能講習などにつなげて資格取得を促していく手段提供、または公共事業関連企業などへの就労斡旋など、就労に結び付けていける行政的な手段を用いなければならないだろう。
Bタイプにあっては、
1)個別相談体制の充実とプログラム提示
2)就労困難者に対する就労制度
3)シニアワークやシルバー人材センターと連携し、福祉的労働や職業訓練などへつなげられるシステム
が必要であり、早急に労働施策と連携させながらこれらを整備していく必要があろう。
また、Aタイプ、Bタイプ共、自立支援センターは就職準備施設、就職活動施設にその役割を限定をし、就職決定者については、宿泊所など通勤寮を整備しながら基本的に分離すべきと考える。しかし公営宿泊所は常に不足しているため、以下のことが必要である。
1)公営宿泊所を増設または民間施設を借り上げるなどし、全体枠を増やし、かつ「路上生活者」枠を常に一定規模で確保
2)公営宿泊所からの都営住宅枠も大幅に増加させる
3)低家賃アパートの情報収集と情報提供
これらは住宅施策と連携しながら、通勤寮については様々な形で拡大させる必要がある。
4-3 労働・住宅・衛生分野に関する提言
次に労働、住宅、保健衛生の各分野の施策に関する提言をおこなう。
一般労働施策に関しては、上記のような自立支援関連施策と連携しながら、「路上生活者」であるからといって施策対象から排除するのではなく、「路上生活者」であっても活用できるようなシステムを、その様々な制度の中に作るべきである。とりわけ紹介業務において、職業安定所の相談体制はそのことを理解し、雇用主などへ求人開拓を促していく必要があるであろう。就労へのアクセス手段を様々な形で作り上げることが、当座の「路上生活者」対策の労働施策における目標である。産業構造の転換や雇用流動化の中で失業対策の意味もまた多分に変化していくことだろうが、自由市場に委ね「就労弱者」を無視することは許されない。かつてのような公的な失業対策事業の実施を私たちは求めはしないが、就労機会を与えながらも就労出来ない困難者に対しては、その部分を限定した上で、その能力に適合した軽作業労働などを(直接雇用ではなく)優先的に斡旋できるシステムは必要であると考える。そのため、
1)職業紹介業務における「路上生活者」への相談体制の充実と、就労へのアクセス手段を多岐にわたり確立する
2)「公共事業への日雇労働者吸収要綱」に準じた制度を作り、公共事業とりわけ清掃などメンテナンス部門業者に適用し、自立支援センターを対象とした雇用拡大策
3)あるいは、自立支援センター入所者を雇い入れた雇用主に対する奨励金制度のようなものを作る
4)自立支援センター内の就職困難者に対し、特別就労対策に準じた軽作業労働の提供
5)高齢者事業団や協同組合など民間就労団体への支援
などの方法が検討されるべきであろう。
また、日雇労働者対策は、「路上生活者」対策とは別枠ではあるが、深く関連しているので特別の注意が必要であろう。「路上生活者」をこれ以上日雇層から排出しないためにも、こられの仕事に従事している人々に対する対策はより強固にしていかなくてはならないし、また、その対象を現在の日雇手帳保持者層、または特定地域に限定せず、新規参入者も排除しない方向で、また、日雇労働者の概念も、建築土木産業に限定せず、サービス産業末端などで増加するだろう短期就労や派遣労働などへの対策も同時に行なわなければならない。
1)現在行なわれている無料職業紹介事業、労働相談事業、業者指導、福利更生事業などを全都的により推進させ、
2)また、職業安定所における雇用保険日雇労働被保険者手帳の交付と失業給付金の給付業務および紹介業務、技能講習業務などを従前通り推進させていくと同時に、
3)東京都が独自に行なっている特別就労対策、日雇吸収要綱などによる就労機会の提供を強化、拡大させ、とりわけ高齢者雇用対策をこれらの対策の中でも導入すべきであろう。
4)また、手帳保持者以外の日雇労働者などに対する就労の明確化と苦情相談などのシステムを作りあげる必要もあろう。
5)「路上生活者対策」との関連で言えば、手帳交付の際に必要な住民票提示義務を緩和させる必要があり、また、窓口での新規手帳交付の制限をやめさせることである。
6)また労働基準監督行政も、違法手配、労働基準法違反の飯場経営などの違法行為に対する指導、取締りを強化させる必要があろう。
住宅施策は前述したよう、公営の宿泊所など低家賃住宅の提供がなによりも必要となっており、ここに最大の力を注ぐ必要があるだろう。
その増設の手段は何も新築だけが手段ではない。民間の老朽木造簡易宿泊所や共同住宅などは不良住宅として建替えなどの指導がよくされるが、当座の社会資源としてこれらの施設などを買い上げまたは借り上げるなどの工夫もまた必要であり、また行政が所有している再開発地帯などで使用されていない住宅の活用も積極的に行なうべきであろう。また、民間アパートに入居した際の家賃補助などの制度的な検討も必要であろう。
低所得者向けの住宅施策は一般世帯とのバランスが重視されるが、そのバランスだけにこだわっていたら何も出来ない。「路上生活」ではない屋根の何らかの提供は極めて重要な施策である。
そのため、当座においては、
1)公営宿泊所の入居基準を「路上生活者」に対して緩和する
2)公営宿泊所を増設する
3)公営宿泊所から都営住宅への優先枠を増枠する
ことを重ねて提言しておきたい。
保健衛生施策は生活保護関連施策と密接に関連しており、生活保護行政との連携こそ第一にしなければならないだろう。
またその問題点に基づく要望については前章で細かく展開したので、ここでは基本的な観点のみに絞って提言していきたい。
「路上生活者」対策の中での保険衛生施策の基本は、「路上生活者」を医療機関につなげるという、治療を受ける手段へのアクセスの確保こそ問題とならなければならないし、とりわけ「路上死」を減少させることを目的化していかなければならない。このように極めて人道的な問題でもありかつ緊急性の高い重要な施策であるが故に、この分野に関しては従来型の発想を改め、ある意味では大胆に施策を前進させていく必要があろう。
そのため、
1)従来の受動型の姿勢を改め、福祉事務所、または医療従事者ボランティア組織などとと連携を取りながら、結核診断、健康診断の機会を「路上」において極力増やす
2)その実施においても「路上生活者」の集住している地点へ出向いての広報を徹底して行なう。ここにおいて「路上生活者」の社会組織などとの情報交換や連携も行なう。また、商店街、駅、公園、道路など「路上生活者」の居住地の管理者に対しても 同様の情報提供の周知を依頼する。
3)また、精神や酒害などの専門相談についても同様に、そのアクセス手段を広く広報していく。
ことが必要不可欠である。これらなどは特別な予算措置などいらず、通常の業務の拡大の枠で出来るのであるから、速やかに取りかかるべきであろう。
そして、救急医療体制に関しても、
1)公立病院での受容体制を早急に整備拡大していく
2)また医療機関や救急隊員などの関係職員の研修などの実施
3)福祉事務所との連絡体制なども病院内で明確化、統一化を図る
といった必要最低限のことは速やかに実施されるべきである。
これら保健医療に関わる施策は通年の施策ではあるが、とりわけ越冬期に集中させていく必要がある。
4-4 生活保護関連施策に関する提言
生活保護関連施策は、これら「路上生活者対策」の中でも「最後の砦」とすべき施策である。それ故、「路上生活者対策」体系がある程度完備されるであろう長期的、将来的展望においては現行の制限的運用は改められるべきである。もちろん現在においても、その是正については可能な限り努力を払うべきであるが、当面は上記保健衛生施策と連携しながら、医療を求める「路上生活者」、および高齢者の中で、生活保護を希望する人々の申請を受理しての保護、また明らかに急迫状態にある人々の緊急保護に重点を置くべきであろう。
とりわけ現在において重要なのは医療福祉分野における青空通院問題の解決であり、医療を受けながらも体を悪化させるという悪循環は打破していかなければならない。
そのため
1)治療療養を目的とする専門の保護施設を準更生施設的に通年開設させること
をまずは提言したい。現在の越冬施設の一部(さくら寮)は実際にそのように活用されており、検査待ちでの療養であるとか、外傷の短期療養、急迫状態での療養など、現行運用でも法外施設をうまく利用しながら比較的弾力的な処置がなされている。すなわち、生活保護運用の中での本来の法外援護として使われている訳であり、それをそのまま通年的な専門施設にしていくことで、青空通院問題の全てとまではいかないが、可能な範囲での解決は図れると考える。肝心なことは、応急援護の二週間短期宿泊とは別枠に考えることであり、そうすることで本来の生活保護運用の中で効果的に利用できるという訳である。
また、現在更生施設増設計画は進行中であり、その回転率も含め従来よりは改善されてきたが、まだまだ施設不足という状態は続いている。その更生施設の計画的な増設を前提にしながら、居宅保護の推進は従来以上に前進させていく必要がある。住宅施策とも合わせ、低家賃アパートの確保や借り上げなど、施設や簡易宿泊所の先の住居をより多く準備していかなければならないだろう。これらは住宅施策との関連でであるが、
1)簡易宿泊所の借り上げなどを従前以上に推進させること
2)民間アパートなどへの入居の際の保証人制度を作ると同時に大家、不動産屋への理解を求めること
などをしていかなくてはならないだろう。
生活保護関連施策において、最大の困難となっているのが、多々指摘した対策の転倒と同時に、施設など保護する場所の不足の問題であり、現地点においては、そこを優先的に改善させていく必要があるだろう。もちろん、保護後の様々な指導上の問題やグループホームなどの手法的な問題も横たわっているが、その点については、当面のと言うよりも今後の課題とすべきではないかと考える。もちろん生活保護世帯が「路上生活者」を生み出す根拠とならないよう
1)指導体制、とりわけ人的な体制を十分に考慮し、福祉職員とりわけ居宅指導係が過重労働とならないよう場合によっては増員すること
2)制裁的な運用を改善すること
は最低限必要であり、その上で自己決定権を尊重した多様な選択肢を現行の生活保護関連施策の中で提供しなければならないだろう。
4-5 「不法占拠」対処に関する提言
「不法占拠」問題の対処は本質的に対策ではないが、付随する問題としてここであえて提言させてもらえば、
1)その解消のために強制的な立ち退きなどの手段を取らないこと
が前提である。そして、その解消が公共的に強く求められている場合については、
2)当事者の社会組織などと管理者との「話し合い」を前提に、管理者は当事者が納得できる移転先を提供し、自主的な退去を求めること
が必要があるだろう。場所的な移転が不可能なケースなど対策が必要な場合は、その対策は「路上生活者対策」に準じた当該地域への重点的な特別な施策となるべきである。
もちろん、「路上生活者対策」の推進こそ大前提であり、「苦情」のみで移転を求めることは「路上生活者」の状態を悪化させる結果となり、対策を混乱させる要因である。これらの方法は公共的に緊急性があり、必要不可欠な場合に限るべきで、無闇な移転要求は極力控えるべきであろう。
4-6 課題的な提言
上記の提言は、対処療法的な部分においてのものであり、また主に都区行政が実施主体となるものに限って議論を展開している。今後、自治体レベルの対応ではなく国政レベルでの対応への発展が期待されるが、当座において自治体、とりわけ大都市は国が動き出すのを待つという姿勢ではなく、独自の対策の推進をしながら、国からの財政支援、および法制度整備などを要請しつつ、将来的には「路上生活者」対策を全国化させていくことが必要となってくるだろう。
対処療法的な部分に提言が終始したのもまた、現在におけるこれら体制の未完成に規定されるからである。
国政レベルでの広い視野に立つならば、とりわけ社会の底辺で現在働いている人々の保護政策を社会福祉的な観点や社会政策的な観点からもう一度チェックし直す必要があるだろう。今後雇用の流動化などで既存の労働保護施策からは取りこぼされる人々の存在や、都市生活者が抱える新たな社会問題など、今後予想される新たな貧困への対処を(これこそ政治問題であるが)本格的に取り組まない限り「路上生活者」化の進行を防ぐ手立てはなくなる恐れもある。すなわち、「路上生活者対策」と同時にザルの底を塞ぐ修復作業を進行させていかなければならず、その検討に早急に取りかかる必要があるだろう。
それと同時に従来型の社会福祉の方法が果たして今日的に適合しているのか否かという論議もまた必要になってくるであろう。既に指摘してきたよう、不足分を補うだけの方法論では、福祉が貧困者の受動的な姿態を作りあげるだけで、そこからはい上がる気力すら奪いかねない。権利義務関係としての福祉の在り方というのはもっと議論が必要ではないかと考える。
いずれにせよ、「路上生活者対策」は緊急性を要する課題でもあり、可能な限りにおいて現在出来得る事は早急に取りかからなければならないだろう。すなわち、全体のビジョンを鮮明にし、また対策姿勢も明確化しながら、短期的な課題、中長期的な課題を順を追いながら克服していくことこそ求められている。この努力を怠ることは現在「路上生活者」水準までに転落寸前な人々をも無闇に「路上生活者」に落とし込めるだけのみならず、「路上生活者」を固定化させ、その状態を更に悪化させるだけの結果しか待っていないからである。
このような明確なビジョンをもった対策の前進姿勢こそ「路上生活者」に対する社会的な異端視を解消させる前提であろう。
おわりに
近年の「路上生活者」をめぐる議論でよく言われることの中に、民間活用路線、ボランティア活用論というのがある。これは常にボランティアサイドから主張される論点であり、行政も最近はまたそのようなことを冠をつけたよう言い始めた。私たちはこの報告書の中で、そのような流行の主張には力点を置かなかったし、それらの主張は必要最低限のレベルでしか言わなかった。すなわち問題の根っこは決してそこにある訳ではないからである。それは方法論であり、ある意味では瑣末な議論であり、ボランティアが加わったからといって行政の柔軟性が保障される訳でもなんでもないからである。
私たちは行政に対しては、民間に頼るのではなくしっかりとしたビジョンをもって確固たる施策を進めてもらいたいと願っている。問題の客観的な分析と判断、そして当事者の困窮の把握、そして、その上で、その要望に答える社会的な力の発揮が可能なシステムを作ることこそ問われているのであり、行政の視線は右往左往せずにそこに集中すべきである。逆に民間団体は、民間の力で出来る可能な限りのことをすれば良いのであり、行政におべっかを使う必要もなければ、行政から財政支援を受ける必要もない。行政をチェックする機能こそ民間には必要だし、行政施策に対し様々な議論を吹っかけて行くことこそ必要である。それぞれの独自の力の努力の発揮の先に真のパートナーシップというのは生まれるのであり、依存の関係からはそのようなものは生れようはずがない。まずは、それぞれを認め合うことである。そこから議論が始まり、接点も生まれる。ただ、それだけであろう。
私たちはだからこそ、「路上生活者」の社会組織を作ることに全力をあげている。そして、そこで可能なことは行政の力を借りず自力で行なうことを目指している。パトロール(夜回り)であったり、適切な情報伝達であったり、炊き出しであったり、医療、労働相談であったり、福祉事務所の監視行動であったり、「路上生活者」対策をめぐる行政との交渉であったり要請行動であったりと、私たちは常に「路上生活者」と共に行動をし、「路上生活者」の生きる力を発揮していきたいと考えている。その中にはその「声」を社会に発し、理解を求める作業も含まれる。社会的な理解というのは、観念的なものでなく、これら実際の動向の中から生れ得るものであると考えるからである。
私たちの行政との関係はそのような考え方が基本となっている。
かつて、私たちは強制排除をめぐり東京都行政との熾烈な闘争をたたかって来た(その一部は未だ裁判闘争で継続されている)。が、もちろんその対立構造は固定化されたものではなかった。より良き社会的な解決を目指すという一致点が双方から生じていく中で、現在行政とは比較的対等に対話できる関係が続いている。もちろん私たちは対立が必要がないと言っている訳ではない。その対立がより議論を醸し出して行く対立なら、すなわち発展性のある、不毛な対立でない限りにおいては必要な場合もある。すなわち、私たちはただ単に対立を煽るという姿勢ではなく、ただ単に融和を唱えるという姿勢でもなく、施策実施者との緊張した関係を維持していくことこそ、施策の前進に有意義だと感じているだけである。
私たちのこの立場はなかなか理解がされない点であるが、私たちはここに、他のボランティア団体とは一線を画す大きな確信を持っている。
この提言がそのように読まれることを期待したい。もちろん、これは議論の素材であり、ここから様々な議論が発せられることもまた期待していきたい。
しかし、最も肝心なことは、行政がどう考えているか、支援・当事者団体がどう考えているかの把握ではなく、また、「路上生活者」をどう援護するかという方法論でもなく、この報告書を読んだあなたがこの問題を率直にどう感じ、率直にどう行動するかである。私たち一人ひとりが暮らす、この社会の力を結集することなしに、この問題の解決はありえないのだから。
(了)
1999年5月
新宿連絡会(新宿野宿労働者の生活・就労保障を求める連絡会議)